「論語」と「自己への配慮」3 巧言令色鮮なし仁

前回は論語は口語訳だったので対応する漢文から始めよう。
超有名的、

學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。

子曰、「吾十有五而志於學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲、不踰矩。」

の日本語訳を取り上げたのである。
自らの血肉となるように思索する。仲間が集まってくるほど、金や名誉よりも大事なことがある。それが道を求めること。15歳から学びの節はあまりに有名だろう。

フーコーによればストア派は友との交流や師弟関係を重視していた。

マルクス・アウレリウスは、こうして「自己のうちに退いて行なう修行生活」の一つの模範を提示する。すなわち、他の人々にたいしても、偶発的な出来事にたいしても、物事にたいしても、心を乱さないように納得させてくれる分別ある論拠を、一般原則を再活性化する長期の仕事である。さらにまた、親友とか友人とか指導者や教導者とかとの語らいがあり、これには、人が自分の心の状態を述べ、忠告を求め、それを望む相手には与
える往復書簡がつけ加わる―しかもそれは、師と名づけられる者にとっても有益な実践を組立てるものである。というのは、その師はこうして自分自身のために当の忠告をくり返し実行するからである。つまり、自分自身への気配りを中軸としてそのまわりに、発話と記述の活動全体がくり拡げられたわけであり、そこでは、自己にたいする自己の作業と、他者との意思疎通〔一体化〕が、結び合わされる。

フーコー 性の歴史 3巻 自己の陶冶 70ページあたり新潮社

これは後のキリスト教的修道の世界が隠遁修道制、砂漠の師父のような、が流行ったり、都市から離れたところに修道院を建設して、修道士たちは好んで孤立していったあり方との比較だろう。現存する10世紀ごろのロマネスク教会も交通の便の悪いところがほとんどである。そういうところだから宗教戦争の被害にあいにくかったと言えるのかもしれない。

さて、一つ修徳について追加。

述而第七
三(一五〇)
 先師がいわれた。――
「修徳の未熟なこと、研学の不徹底なこと、正義と知ってただちに実践にうつり得ないこと、不善の行を改めることが出来ないこと。――いつも私の気がかりになっているのは、この四つのことだ。」

徳や学問について完全を目指す態度は珍しくない。正義について直ちに実践するべしという要請はソクラテスのパレーシアの用件である、言うことと考えていること行うことの一致を思い出させる。
 フーコーの指摘する政治的なパレーシア、哲学的なパレーシアを満たしているだろうか。
 ソフィストは考えていることと言うことは一致しない。正義よりも目先の利益を考えて、本音と建前えを変えると言う感じだろうか。

そのような考え方を私たちはよく知っている。最も有名な言葉の一つであり、ある意味私たちを縛る言葉にもなっている。

学而第一
三(三)
 先師がいわれた。――
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、仁の影がうすい。」

巧みな言葉という意味は真実の言葉という意味でなく何か策略を秘めた言葉、裏のある言葉を彷彿とさせる。プルタルコスの「似て異なる友について」を参照しても良いかもしれない。
 日本では巧言令色の反対概念が朴訥、無口というように受け取られている。朴訥であれば誠実な人というような受け取られ方ではないだろうか。パレーシア概念を知っていると、巧言令色の反対概念はむしろパレーシアを当てるべきだと考えられる。
 パレーシアについて、何度も書いているので読んでいただいている方には申し訳ない。パレーシアのおさらいは、古代ギリシャにおいて、身分の低いものが高いものへリスクを抱えながら腹蔵なく語る、率直に語る、全てに語る。しかもそれは権利である。奴隷やアテネ外の人民はそのような権利を持てないらしい。パレーシアする権利の行使という概念がギリシアにはあったのだ。
 パレーシアは政治的な発言でもあるが、フーコーが重視しているのは自己への配慮とセットになった哲学的なパレーシアである。それは、ソクラテスによる自己への配慮とセットになった相手に語りかけ相手を改心させ相手が自己に専念できるよう導く忌憚のない語り、である。
 孔子も反語的に言っただけで、朴訥と言葉少なくいなさいそう言いたかったわけではなく、そうではなくて、パレーシアのように、考えていること行動すること、それと一致したことを言葉で実直に語れ、と言いたかったのかもしれない。

 さて、話を戻してプラトンがシラクサにわざわざいきディオニシオスに政治的なパレーシアして奴隷になって売り飛ばされた話がある。それに対応する孔子の話は

陽貨第十七
五(四三九)
 公山弗擾(こうざんふつじょう)が、費(ひ)に立てこもって叛いたとき、先師を招いた。先師はその招きに応じて行こうとされた。子路はそれをにがにがしく思って、いった。――
「おいでになってはいけません。人もあろうに、何でわざわざ公山氏などのところへおいでになるのです。」
 先師がいわれた。――
「いやしくも私を招くのだ。いいかげんな考えからではあるまい。私は、私を用いるものがあったら、第二の周(しゅう)をこの東方に建設しないではおかないつもりだ。」

同じような君主への態度である。

実際古代中国では政治的なパレーシアとして君主に忠言するとどうなるだろうか?

微子第十八
微子(びし)・箕子(きし)・比干(ひかん)は共に殷(いん)の紂(ちゅう)王の無道を諌めた。微子は諌めてきかれず、去って隠棲した。箕子は諌めて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諌して死刑に処せられ、胸を剖さかれた。先師はこの三人をたたえていわれた。――
「殷に三人の仁者があった。」

という酷いことになるようである。リスクをとって諌めたが、ということになる。織田信長にパレーシアしたら殺されるのがオチというのと同じことか。

今回はここまでにしましょう。

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