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ChatGPTによる真理の勇気 その3 エリウゲナによる偽ディオニシオスのパレーシアのギリシア語からラテン語への翻訳

ギリシア哲学に起源をもつパレーシアが聖書に使われ、「神への信頼」「復活への信頼」の意味が付与され、偽ディオニシオスで使われているのも、同じ論調でポジティブなパレーシアと言えるものでした。
 この文書はエリウゲナ(Johannes Scotus Eriugena, 810年? - 877年?)によって9世紀に翻訳されました。出典を失念しましたが翻訳チームを作っての翻訳であったようです。
 エリウゲナについて詳しくはこちらをご覧ください。

 さて、パレーシアはラテン語に訳された時、パレーシアに対応する言葉がないために訳しわけられていると、フーコーは報告しています。どのように訳されたのか、具体的に見てみたいと追っかけることにしました。
 ラテン語のオリジナルソースはこちらにあります。
 https://documentacatholicaomnia.eu/04z/z_0815-0877__Ioannes_Scotus_Eriugena__Versio_Operum_Dionysii_Areopagitae__LT.doc.html
 文書を開きChatGPTを頼りに該当箇所を探していきます。
 ちょっとくどくなりますが、ギリシア語とその日本語変換については再掲し、対応するラテン語と変換を掲載します。

一つ目

4.10     p180   159
Παῤῥησιάσεται  δὲ κα τοτο επεν ὁἀληθς λόγος, ὅτι καὶ αὐτὸς ὁ πάντων αἴτιος δι’ ἀγαθότητος ὑπερβολὴν πάντων ἐρᾷ, πάντα ποιεῖ, πάντα τελειοῖ, πάντα συνέχει, πάντα ἐπιστρέφει, καὶ ἔστι καὶ ὁ θεῖος ἔρως ἀγαθὸς ἀγαθοῦ διὰ τὸ ἀγαθόν. Aὐτὸς γὰρ ὁ ἀγαθοεργὸς τῶν ὄντων ἔρως ἐν τἀγαθῷ καθ’ ὑπερβολὴν προϋπάρχων οὐκ εἴασεν αὐτὸν ἄγονον ἐν ἑαυτῷ μένειν, ἐκίνησε δὲ αὐτὸν εἰς τὸ πρακτικεύεσθαι κατὰ τὴν ἁπάντων γενητικὴν ὑπερβολήν.

ChatGPT
しかし、真実の言葉はこれを断言できます。それは、すべてのものの原因である神は、その無限の善意によってすべてを愛し、すべてを創造し、完璧にし、すべてを保持し、すべてを回復し、神聖な愛そのものであることです。実際、すべての存在を善で充たす神聖な愛は、善の中で超越的に存在し、それを自分の内部で停止させず、すべての存在を超越的な善に向かって運動させました。

Eriugenaによるラテン語訳
Audebit autem et hoc dicere vera ratio, quia et ipse omnium causalis per bonitatis excellentiam omnia amat, omnia facit, omnia continet, omnia convertit, et est etiam divinus amor optimus optimi per optimum.
Ipse enim bene factor existentium amor, in optimo per excellentiam ante subsistens, non sinit ipsum infecundum in se ipso manere, movit autem ipsum in agendum juxta omnium genitivam excellentiam.
EriugenaからのChat GPT
「しかし、真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう。なぜなら、彼自身がすべてのものの原因であり、善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛です。なぜなら、存在するものの善を適切に行動する存在である愛は、卓越性において最高の存在に先立つものであり、それ自体を不妊なままにしないで、むしろすべての生成の優れた原因に従って行動するように導いたのです。」
パレーシアのところは
Audebit autem et hoc dicere vera ratio" はラテン語で、「しかし、真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう」あるいは、「しかし、真実の理由を語る勇気も持つだろう」とChatGPTは返してきます。
逐語訳でみても、
Audebit 言う、勇気を持つ
autem しかし、そして
dicere言う
vera 真理、真実
ratio 理性

内容を見ると神の能力が完全である、神の愛への信頼を述べています。これをいうのに挑戦がいる、勇気がいるというのは不思議な気もします。

二つ目

4.19  二行目
Ταῦτα μὲν οὖν ἴσως ἐρεῖ τοιόσδε ἀπορῶν λόγος,
ἡμεῖς δὲ ἀξιώσομεν αὐτὸν εἰς τὴν τῶν πραγμάτων ἀλήθειαν ἀποβλέπειν
καὶ πρῶτόν γε τοῦτο εἰπεῖν παῤῥησιασόμεθα·
Τὸ κακὸν οὐκ ἔστιν ἐκ τἀγαθοῦ, καὶ εἰ ἐκ τἀγαθοῦ ἐστιν, οὐ κακόν, οὐδὲ γὰρ πυρὸς τὸ ψύχειν οὔτε ἀγαθοῦ τὸ μὴ ἀγαθὰ παράγειν. Καὶ εἰ τὰ ὄντα πάντα ἐκ τἀγαθοῦ, φύσις γὰρ τῷ ἀγαθῷ τὸ παράγειν καὶ σώζειν, τῷ δὲ κακῷ τὸ φθείρειν καὶ ἀπολλύειν, οὐδέν ἐστι τῶν ὄντων ἐκ τοῦ κακοῦ. Καὶ οὐδὲ αὐτὸ ἔσται τὸ κακόν, εἴπερ καὶ ἑαυτῷ κακὸν εἴη. Καὶ εἰ μὴ τοῦτο, οὐ πάντη κακὸν τὸ κακόν, ἀλλ’ ἔχει τινὰ τἀγαθοῦ, καθ’ ἣν ὅλως ἔστι, μοῖραν. Καὶ εἰ τὰ ὄντα τοῦ καλοῦ καὶ ἀγαθοῦ ἐφίεται καὶ πάντα, ὅσα ποιεῖ, διὰ τὸ δοκοῦν ἀγαθὸν ποιεῖ καὶ πᾶς ὁ τῶν ὄντων σκοπὸς ἀρχὴν ἔχει καὶ τέλος τἀγαθόν, οὐδὲν γὰρ εἰς τὴν τοῦ κακοῦ φύσιν ἀποβλέπον ποιεῖ, ἃ ποιεῖ, πῶς ἔσται τὸ κακὸν ἐν τοῖς οὖσιν ἢ ὅλως ὂν τῆς τοιαύτης ἀγαθῆς ὀρέξεως παρῃρημένον; Καὶ εἰ τὰ ὄντα πάντα ἐκ τἀγαθοῦ καὶ τἀγαθὸν ἐπέκεινα τῶν ὄντων, ἔστι μὲν ἐν τἀγαθῷ καὶ τὸ μὴ ὂν ὄν, τὸ δὲ κακὸν οὔτε ὄν ἐστιν, εἰ δὲ μὴ οὐ πάντη κακόν, οὔτε μὴ ὄν, οὐδὲν γὰρ ἔσται τὸ καθόλου μὴ ὄν, εἰ μὴ ἐν τἀγαθῷ κατὰ τὸ ὑπερούσιον λέγοιτο. Τὸ μὲν οὖν ἀγαθὸν ἔσται καὶ τοῦ ἁπλῶς ὄντος καὶ τοῦ μὴ ὄντος πολλῷ πρότερον ὑπεριδρυμένον. Τὸ δὲ κακὸν οὔτε ἐν τοῖς οὖσιν οὔτε ἐν τοῖς μὴ οὖσιν, ἀλλὰ καὶ αὐτοῦ τοῦ μὴ ὄντος μᾶλλον ἀλλότριον ἀπέχον τἀγαθοῦ καὶ ἀνουσιώτερον.

「したがって、これらのことについては、次のような言葉があるでしょう。私たちは彼を、事実の真理を見つめることに導く価値があると思います。そして、まず最初に、率直に言います。『善から悪は生まれない。そして、善から生まれる場合でも、それは悪ではありません。なぜなら、火は冷やすことも、善からは悪を生み出しません。』また、すべての存在は善から生まれ、善によって保たれ、悪からは破壊されますが、悪の本質には何も含まれていません。また、悪そのものも存在しないでしょう。なぜなら、もしそれが自体で悪であるとしたら、それは何もないか、あるいは非常に不完全なものとなるでしょう。」

エリウゲナによる訳

4-19-188   pp1881パラグラフ目 
Et primum quidem hoc dicere confidemus: Malum non est ex optimo, et si ex optimo est, non malum. Neque enim ignis frigere, neque optimi non optima adducere.
そして、最初に私たちが言うことに自信を持っています:悪は最善から生まれたものではなく、もしそれが最善から生まれたものであるならば、悪ではありません。なぜなら、火が冷たくなることもなく、最善のものが最善でないものを引き寄せることもありません。
quidem 確かに
hoc このもの
dicere confidemus 言うことに自信を持っています=parrasia

4-19-188 2パラグラフ目
Et si existentia omnia ex optimo—natura enim optimo, adducere et salvare, malo vero corrumpere et perdere—nihil est existentium ex malo, et neque ipsum erit malum.
そして、もしすべての存在が最高から来ており、自然は最高を引き寄せて保ち、悪を腐らせて滅ぼすのであるならば、存在するものの何もが悪から来ておらず、またそれ自体も悪ではありません。

Si quidem et sibiipsi malum sit, et si non hoc, non omnino malum erit malum, sed habet quandam optimi, secundum quam omnino est, partem.
実際には、自己にとって悪であるとすれば、もしそれがそうでなければ、完全に悪は悪ではなく、最高の何かを持っている。

三つ目


4.20 後半  
Νῦν δὲ τοῦτο ἔστι τῆς τοῦ ἀγαθοῦ δυνάμεως «τὸ ὑπερβάλλον μέγεθος», ὅτι καὶ τὰ ἐστερημένα καὶ τὴν ἑαυτοῦ στέρησιν δυναμοῖ κατὰ τὸ ὅλως αὐτοῦ μετέχειν.
Καὶ εἰ χρὴ παῤῥησιασάμενον εἰπεῖν τἀληθῆ· Καὶ τὰ μαχόμενα αὐτῷ τῇ αὐτοῦ δυνάμει καὶ ἔστι καὶ μάχεσθαι δύναται.
ChatGPT
しかし、今、善の力のこれが「超越的な偉大さ」であり、それは貧しいものさえも自己の不足と一緒に完全に共有することができることを示しています。
そして、真実をはっきりと言うなら、自己の力に戦わせ、自己の力によって戦うことができるのです。
p191  200

4-20-200-1  pp191
Nunc autem haec est boni virtutis superexcellens magnitudo, quia et privata et suimet privationem posse facit, secundum quod universaliter est sui participare.
「しかし、これは善の美徳の非常に優れた偉大さです。なぜなら、それは欠如とその欠如を可能にする力を持ち、それは普遍的に自己を共有することです。」
4-20-200-2  pp191 (ラテン語訳では201段が混入している)
Et si oportet fidum dicere verum, et pugnantia ei sua virtute et sunt, et pugnare possunt, magis autem, ut comprehendens dicam, omnia existentia, quantum sunt,
et bona sunt, et ex bono; quantum autem privantur bono, neque existentia sunt, neque bona.

「そして、真実を言う必要があるなら、真実は信じるべきです。そして、互いに彼自身の力で相互に対立して存在し、戦うことができますが、理解するために言えば、すべての存在するものは、その存在の程度に応じて善であり、善から生まれています。しかし、善から欠けているものは、存在せず、善ではありません。」
oportet 必要があるなら
fidum 信頼できる
dicere 言う、述べる
verum 真実

この三つ目の表現と意味はよくわからない。熊田先生の翻訳、英語への翻訳を読んでも、なるほど、と思えない。いずれわかったら。

さて、以上、真理を話す挑戦、自信、必要と、それぞれ異なる非常に強い表現で修飾しています。
3箇所のパレーシアのラテン語への翻訳を再掲します。
Audebit autem et hoc dicere vera ratio :真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう。
dicere confidemus: 言うことに自信を持っています
Et si oportet fidum dicere verum: 真実を言う必要があるなら

この中で一番初めのラテン語表現(Audebit autem et hoc dicere vera ratio 真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう。)が,際立っています。
 その内容も「彼自身がすべてのものの原因であり、善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛です。」といかにもな神の賛美です。どうしてパレーシアの原義である「身の危険を感じながらでも真理をいう」を意識した「挑戦」のような政治的概念をラテン語に含ませてきたのでしょうか?そんなにそうすべき内容なのでしょうか?「神への信頼」の宗教的パレーシアとしてもいかにもノーマルの域を出ていないように思います。どこにパレーシアする価値が?ところがある文書と付き合わせるとそうも言ってられないのです。次回はそれを議論しましょう。
Life is mystery.

フランスのロマネスク、オータンのサン・ラザール大聖堂のタンパンのキリスト
向かって左は天国、右には地獄が彫刻されている。
<https://quartetgrape.wordpress.com/hypomnemata_of_romanesque/autun/autun-tympanum/>
参照。筆者撮影
「真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう。なぜなら、彼自身がすべてのものの原因であり、善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛です。」が似合わない畏怖すべきキリスト(次回のテーマ)


[真理の勇気シリーズ]

1 前振り


2  その1 パレーシアと聖書

3  その2 偽ディオニシオスのパレーシア

[ネット上で読める参考文献]

西洋中世における二つの天上位階

http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/2149/um-v4n1-p39-54-shi.pdfsequence=1&isAllowed=y


偽ディオニシウスにおける神認識とスコトゥス・エリウゲナに対する影響について


古代から中世へ http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/4582あ/1/08_小林先生.pdf
小林, 淑憲; KOBAYASHI, Yoshinori2023-03-27

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