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一期一会の本に出会う (9)軽便鉄道が繋いだ夏目漱石と宮沢賢治

京都の龍寶山大徳寺で購入した色紙。「一期一会」と書いてある。最初の「一」がすごいですね。

「銀河のお話し」の状況設定と同じです。 こちらをご覧ください。 https://note.com/astro_dialog/n/n7a6bf416b0bc

『漱石と「学鐙」』を読んで考えた夏目漱石、木村榮、宮沢賢治の関係

前回、天文部の部会では、夏目漱石(1867-1916)と宮沢賢治(1896-1933)が水沢の緯度観測所の所長であった木村榮(きむらひさし、1870-1943)を介して間接的に繋がったことを話題にした。なぜ、これが天文部の話題になるのか、不思議なのだが、話題になったのだからしょうがない。
もちろん、賢治と漱石は直接会ったことはない。賢治は漱石の存命中も詩や童話を書いていたが、文壇とは没交渉であった。そのため、漱石と知己を得ることはなかった。

一方、賢治の10年先輩である石川啄木(1886-1912)は朝日新聞社で漱石と知り合い、付き合いがあった。啄木がもう少し柔らかな性格で長生きしていれば、漱石の門下生(“漱石山脈”と呼ばれ、漱石を頂きとする人脈)に入れたかもしれなかったが、そうはならなかった(『漱石山脈』長尾剛、朝日新書、朝日新聞出版、2018年、第四章、六)。人の縁にはいろいろあるものだ。

こんなことを考えているうちに、輝明は天文部の部室に着いた。

輝明が部室に入ると、すぐに一年生部員の優子から質問が飛んだ。
「夏目漱石と宮沢賢治。二人の木村榮を介した関係は分かりましたが、他にも何か関係があったんでしょうか?」
優子の関心度はかなり高そうだ。
「うん、ひとつ見つけた。」
「わあ、なんですか? 楽しみ。」
「その前に昨日話した夏目漱石・木村榮・宮沢賢治の関係をまとめておいたので復習しておいて(図1)。」
「はい。」

図1  木村榮を介した夏目漱石と宮沢賢治との間接的な繋がり。木村は地球の緯度の測定精度を上げる画期的な発見をした(「Z項」と呼ばれるもの)。この業績で、木村には第1回恩賜賞が授与された。ところが、漱石はこの受賞を批判した。一方、賢治は水沢の緯度観測所を訪れ、木村との知己を得た。 写真:WIKIPEDIA

夏目漱石の中国旅行

「さて、漱石と賢治の関係は図1に示したものだけだったのだろうか? 実は、僕も内心、そのぐらいだろうと思っていた。ところが、もうひとつの関係を見つけた。それは意外な関係だった。」
輝明はおもむろに話し始めた。
「漱石は明治42(1909)年、満州と朝鮮を旅行した。その年の9月2日から10月14日の期間だ。」
「二週間ですね。当時の旅行はどんな感じだったんでしょうか?」
「この旅行の様子は「満漢ところどころ」という随筆に見ることができる。これは明治42年の10月21日から12月30日まで朝日新聞に連載されたものだ。翌明治43年に『夢十夜』、『永日小品』、『文鳥』と併せて刊行された。僕の手元にある岩波書店の『漱石全集』(1956年)では、第十六巻(小品・上)に収められている。ただ、小品という名にはそぐわない。」
「えっ? どうしてですか?」
「何しろ、128頁から227頁まで、百頁もあるからだ。」
「うわあ、長編の随筆ですね。
「この旅行中の日記も残されているよ(『漱石全集』第二十五巻、岩波書店、1957年、116-158頁)。」
「あとで、漱石全集を貸してください。読んでみたいです。」
「いいよ。とても面白い。」

輝明は話を続ける。
「漱石はこの旅で、満州を訪れたとき、鉄道に乗っている(『夏目漱石の中国紀行』原武哲。鳥影社、2020年、第二部、第三章)。奉天(現在の瀋陽 [しんよう])と安東(現在の丹東)を結ぶ安奉(あんぽう)線は(図2)、日露戦争の頃に日本軍によって敷かれた軽便鉄道、つまり日本軍用軽便鉄道だった。」

図2 奉天(現在の瀋陽)と安東(現在の丹東)を結ぶ安奉線(赤い点線で示囲んだ路線)。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manchukuo_Railmap_jp.gif

「軽便鉄道? なんだか賢治の香りが・・・。」
優子は鋭い。輝明は感心した。
「漱石の日記を読むと、かなり大変な列車だったみたいだ。

二十六日〔日〕 朝七時過安奉線に向かって出発。便軽鉄道にて非常の混雑名状すべからず。大変な窮屈なところにて我慢す。どうすることもできず。しばらくして駅夫来りて別に席をあつらえるといふ。今度は非常にゆつくりす。(『漱石全集』第二十五巻、岩波書店、1957年、134頁;漢字は現代のものにした。なお、便軽鉄道は原文のままである。書き損じだとは思うが、怒り心頭で敢えて便軽鉄道にしたのかもしれない。)。

非常の混雑名状すべからず。都心の通勤列車みたいですね。」
「まあ、乗ってしまったものはしょうがない、という感じだね。」

南満州鉄道の軽便列車は日本各地の鉄道に払い下げられた!

「そして、ドラマが始まる。日露戦争が終わって、この鉄道は南満州鉄道株式会社に継承された。それが1906年のことだ。だから、漱石が乗ったのは南満州鉄道の軽便鉄道列車だったんだ(図3左)。その後、国際列車にする構想が立ち上がり、軽便鉄道は廃止された。レールの幅が拡幅され標準軌に改軌された(安奉線も1911年には標準軌で開通している)。」
「じゃあ、軽便鉄道のレールや車両はいらなくなっちゃった、てことですか?」
「そうなんだ。」
「まさか、不要になった軽便鉄道のレールや列車は日本に運ばれんじゃ?」
「優子、そのとおりなんだ。」
「ということは、岩手軽便鉄道(図3右、花巻から釜石手前の仙人峠の間で営業)は?」
「ご名答。日本各地の軽便鉄道に流用されたんだけど、岩手軽便鉄道でも使用されるようになった。(『漱石と鉄道』牧村健一郎、朝日新聞出版、2020年)。」

図3 南満州鉄道の軽便列車(左)と岩手軽便鉄道(右)。左の写真は1908年10月28日から大連-長春間で運行開始された急行列車の姿。 https://ja.wikipedia.org/wiki/南満洲鉄道の車両#/media/ファイル:South_Manchuria_Railway_LOC_03283.jpg https://ihatovstn.jp/hanamaki-guide/keiben-station/

「岩手軽便鉄道は1913年に花巻から土沢の区間で開業した。そして、1915年には仙人峠まで延伸された。1936年からは日本国有鉄道・釜石線、1987年からは東日本旅客鉄道・釜石線となった。995年からは銀河ドリームライン釜石線の愛称が付けられた。また、2014年4月から2023年の6月までの期間、「SL銀河」が運行されていた。残念ながら、僕は乗ったことがない。」

漱石が腰掛けた座席に、賢治も座った?

「賢治が大好きだった岩手軽便鉄道。童話の名作『銀河鉄道の夜』に出てくる銀河鉄道のモデルとも言われる鉄道。それは満州からやってきたんですね。」「この岩手軽便鉄道は漱石が満州の安奉線で乗った軽便鉄道だ。ひょっとしたら漱石が腰掛けた座席に、賢治も座ったかもしれないね。まさか軽便鉄道で漱石と賢治が繋がっていたとは思わなかった(図4)。」

図4  図1では木村榮木村栄を介した夏目漱石と宮沢賢治との間接的な繋がりであったが、実は軽便鉄道で漱石と賢治は繋がっていた。

岩手軽便鉄道よ、銀河まで走れ!

輝明はふと思った。岩手軽便鉄道は南満州軽便鉄道よりは快適だったんじゃないかと。なぜなら、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」という詩を思い出したからだ。

もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も
続々うしろへたたんでしまって
なほいっしんに野原をさしてかけおりる
わが親愛なる布佐機関手が運転する
岩手軽便鉄道の
最後の下り列車である
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、本文篇、229-230頁、筑摩書房、1996年)

『漱石と「学鐙」』。 この一冊の本が、漱石と賢治をつなげてくれた。今度、花巻に出かけたら、釜石線の列車に乗ってみよう。百年の時を遡れるかもしれない。岩手軽便鉄道に乗ったつもりで、銀河まで行ってみたい。


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