見出し画像

一期一会の本に出会う (4)『漱石と「学鐙」』 夏目漱石は天文学に関心があったのか?

京都の龍寶山大徳寺で購入した色紙。「一期一会」と書いてある。最初の「一」がすごいですね。

「銀河のお話し」の状況設定と同じです。 こちらをご覧ください。 https://note.com/astro_dialog/n/n7a6bf416b0bc

『漱石と「学鐙」』

東京駅近くにある書店をふらふら歩いていたら、輝明の目に一冊の本が目にとまった。『漱石と「学鐙」』(小山慶太 編著、丸善出版、2017年)という本だ(図1)。

図1 『漱石と「学鐙」』(小山慶太 編著、丸善出版、2017年)。

漱石は無論、夏目漱石(1867-1916)のことだ。また、「学鐙」は丸善出版の企業PR誌である。1897年(明治30年)3月に創刊された歴史ある雑誌だ。季刊誌なので春夏秋冬の年4回の発行である。書店に置いてあるので、ときどき手に取って読んでみたことがある。
いったい、漱石と「学鐙」にはどんな関係があるのだろうか? ちょっと、興味が湧いた。
とにかく、本当の出会いは一期一会。『漱石と「学鐙」』がその一冊になった。唐突だけど、天文部の部会でこの本を紹介してみよう。輝明はそう思った。なぜなら、天文ファンには、とても興味深い話が出ていたからだ。

次の日、輝明は部会で話を始めた。
「みんな、昨日、面白い本を見つけた。」
「なんですか?」
早速、優子が質問した。
「この本だ。」
「『漱石と「学鐙」』?」
「漱石は夏目漱石のことですね?」
「そうだよ。」
「部長は漱石のファンなんですか?」
「いや、ぜんぜん。まったく、逆と言ってもよいかもしれない。なぜなら、僕は漱石の作品をひとつも読んだことがない。」
「ええーっ! それはすごいです。」
「たとえば、『吾輩は猫である』は?」
「読んでない。」
「じゃあ、『坊っちゃん』は?」
「読んでない。」
「うーん・・・、凄すぎです。」
優子はそのほかに『こころ』、『草枕』、『三四郎』などのことを聞こうかと思ったが、完全に諦めた。

漱石と天文学者

「ところで、その本は天文と関係あるんでしょうか?」
「ほんの一部だけど、ある。」
「どんなことですか?」
「優子は「Z項」という言葉を知ってるかな?」
「「Z項」? はい、聞いたことがあります。たしか、地球の緯度に関係した言葉じゃなかったでしょうか?」
「そのとおりだ。よく知っていたね。感心、感心。」
「家に戻って、『漱石と「学鐙」』の目次を拾い読みしてみんだ。すると大発見があった。なんと、次のタイトルの記事を見つけたんだ。」

漱石と天文学者 木村榮 小山慶太 95頁 (1988年6月号掲載)

「わあ、「漱石と天文学者」なんて、不思議なタイトルですね。漱石は天文学に関心があったんでしょうか?」 
「うん、予想外の話が出ていた。それが、さっき聞いたZ項に関係することなんだ。」
「なんだか、面白そうですね。」
優子の目がキラキラしてきた。

噛み付く漱石

輝明は『漱石と「学鐙」』と天文の関係を話し始めた。

「その原因となったのは明治44(1911)年7月5日に行われた帝国学士院第1回恩賜(おんし)賞授賞式だ。映えあるこの賞に輝いたのがZ項で一躍世界的に有名になった木村榮だ。受賞理由はもちろん「地軸変動の研究特にZ項の発見」。誰もが納得する受賞だったと思う。」
「そうですね。木村先生とZ項の話は学校の授業で習ったような記憶があります。」
「ところが、漱石は違った。明治44年7月14日、東京朝日新聞の文芸欄に「学者と名誉」という漱石の一文が掲載された。もちろん、漱石は木村の業績を認めてはいる。しかし、木村一人だけが表彰されるのは、他の大勢の学者が蔑ろにされたような行為であると指摘したんだ(図2)。次の文章を見てごらん。」

 学士会院が榮誉ある多数の学者中より今年はまづ木村氏丈を選んで、他は年々順次に表彰すると云ふ意を当初から持ってゐるのだと弁解するならば、木村氏を表彰すると同時に、其注意が一般に知れ渡るやうに取り計らふのが学者の用意と云ふものだろう。 (『漱石と「学鐙」』96頁)

図2 (左)夏目漱石、(右)木村榮。漱石はZ項発見のニュースで木村を知っていた。しかし、漱石は木村の恩賜賞受賞にクレームを付けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石#/media/ファイル:Natsume_Soseki_photo.jpg https://ja.wikipedia.org/wiki/木村栄#/media/ファイル:Dr._Kimura_Hisashi.jpg

「これが漱石の批判のポイントだ。」
「うーん、ちょっと的外れのような・・・。」
優子も怪訝な顔をしている。輝明は優子の反応が気に入った。

木村榮のZ項

「まず、木村榮(1870-1943、図1)は水沢緯度観測所の初代所長だった人だ。水沢緯度観測所は現在では国立天文台水沢VLBI観測所になっているけど、設立当時は緯度の精密測定のために設置された文部省直轄の研究所だった。」
「あっ!」
「どうした、優子」
「その観測所の建物ですけど、今は「奥州宇宙遊学館」になっているんじゃないですか? (図3)」
「よく知ってるね。僕は一度行ったことがある。レトロで、とても素敵な建物だよ。」
「わあ、羨ましいです。」

図3 岩手県奥州市にある奥州宇宙遊学館。水沢の緯度観測所の建物が利用されている。 (撮影:畑英利 夜間の撮影許可を国立天文台から得た上で、撮影した写真)

「木村榮は厳密にいうと天文学者じゃない。地球物理学者だ。木村が水沢緯度観測所で行っていた観測は特別な光学望遠鏡による星の観測だ。したがって、観測そのものは天文学の観測だ。ところが、測定していたのは星の地平線からの高度であり、その目的は水沢の緯度を精確に測定することだった。研究対象は星ではなく地球だ。地球も天体だけど、地球の研究は地球科学、あるいは地球物理学の分野になる。そのため、厳密に言うと、木村は天文学者ではなく地球物理学者になる。」
「なるほど、そうなんですね。天文台にいる人はみんな天文学者だと思っていたけど、研究分野によって違うんですね。勉強になりました。」
「じゃあ、漱石の批判の対象となった木村の研究成果を簡単に説明しておこう。緯度の精密測定を目的として、水沢は世界の六ヶ所の天文台のひとつとして選ばれた。木村たち職員は気合を入れて観測に乗り出した。ところが集められたデータを調べてみると、水沢のデータだけ挙動がおかしい。他の天文台のデータに比べると、測定制度が悪いように見えた。木村たちは測定装置の総点検を行ったが、悪いところは見当たらない。そこで、木村は何か別の原因があると考え、六ヶ所の天文台のデータを総合的に比較検討してみた。すると、それぞれの天文台のデータに共通する緯度の変化があることがわかった。しかも、それは一年周期で変動しているのだ。この効果を補正すると、六ヶ所の天文台のデータにあった矛盾は消えた。しかも、測定精度そのものは水沢の観測が最もよいこともわかった。
木村は補正項に“Z項”という名前をつけた。これで、水沢の緯度観測所と共に、木村栄の名前は世界に轟いた。」
「失敗は成功のもと、ということですね。やっぱり、自分のやったことに自信を持たないとダメですね。」

漱石の反骨精神

「「漱石と天文学者 木村榮」を執筆した小山慶太は漱石の“反骨精神”の結果として、これらの事件を捉えている。たしかに、そうとしか言いようがないよね。
漱石の恩賜賞に対する批判は木村に向けられたものではないけれど、東京朝日新聞の記事は木村の受賞に水を差したんじゃないかな。しかし、Z項の発見は日本の基礎科学の底力を世界に示したことは間違いない。本来なら、恩賜賞どころではない大成果なのである。漱石は作家なので文化系の人と思われがちだが、実は自然科学の理解も深い人だった。漱石には恩賜賞云々ではなく、素直にZ項発見を喜んで欲しかった。」
「ホントにそう思います。」
心なしか、優子の目は潤んでいるように見えた。

<<<補足説明>>> 木村が提案した補正式は緯度の変化をΔφとするとΔφ=X cos λ+ Y sin λ+ Zで表される。ここでX とY は地球の自転軸と形状軸(これは南北を貫く軸である)とのずれ、λは観測所の経度である。最後に出てくるZがZ項だ。六ヶ所の観測所の緯度は北緯39度08で同じだが、経度はそれぞれで異なる。それによる系統誤差が出ていたのだ。しかし、それだけでは補正することができず、木村はZ項を導入した。ただ、Z項がなぜ必要なのか、残念ながら木村が存命中にはわからなかった。しかし、その後、地球内部にある流体核の影響であることが判明した(自由章動と呼ばれる現象)。これを突き止めたのは緯度観測所の後輩である若生康二郎(わこうやすじろう1927- 2011)であった。1970年のことだ。緯度観測所の執念ともいうべき素晴らしい成果である。

<<< 一期一会の本に出会う >>>

(1) 『夜空はなぜ暗い?』 by エドワード・ハリソンhttps://note.com/astro_dialog/n/n74ec5fa3dc93

(2) オルバースのパラドックスの徹底解明 『夜空はなぜ暗い?』 by エドワード・ハリソン に学ぶ
https://note.com/astro_dialog/n/n37a8fb2e4e23

(3) 2000年に一度しか夜が来ない惑星https://note.com/astro_dialog/n/n6440aa8d95ad

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?