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「宮沢賢治の宇宙」(57) 「天気輪の柱」から読み解く『銀河鉄道の夜』

「町外れの丘」の町は、花巻か、あるいは矢巾か?

『銀河鉄道の夜』では、「天気輪の柱」は「町外れの丘」の上にあるとされていた。いろいろな状況証拠から町は花巻である可能性が高い

花巻だとすると、胡四王山が有力な候補になった。

しかし、『銀河鉄道の夜』は創作童話であり、町を花巻に限定する必要はない。そこで、花巻以外の可能性も考えてみた。その結果、町としては岩手県紫波郡矢巾町、丘(山)としては南昌山の可能性があることがわかった。

胡四王山説と南昌山説

「町外れの丘」の町を花巻とする説を胡四王山説、矢巾とする説を南昌山説と呼美、二つの説を比較してみよう(表1)。

註:胡四王山の三角点については以下を参照: https://yamap.com/activities/31104986/article

「天気輪の柱」の候補としては南昌山説の場合、お天気柱がある。南昌山は昔から天候祈願の霊峰として地元の人々から崇められていた。そのため、南昌山の頂上には、お天気柱である石柱群がある。これは非常によい候補となりうる。

「天気輪の柱」に至る道のりについては、『銀河鉄道の夜』に次の文章がある。

その真っ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくのはなが、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。ジョバンニは頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、冷たい草に投げました。 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、133-134頁)

この風景描写は南昌山説に有利である(『賢治が愛した南昌山と親友藤原健次郎 新考察「銀河鉄道の夜」誕生の舞台 物語の舞台が矢巾・南昌山である二十考察』(松本 隆、みちのく文庫、ツーワンライフ、2014年を参照)。また、南昌山の「白い河原」にある水晶、のろぎ石、そして夏に見る姫蛍の乱舞も『銀河鉄道の夜』にある風景描写とよく合う。

三角点は両方の山の頂上にあるので、「天気輪の柱」が三角標(『銀河鉄道の夜』では星のこと)に変化するのは問題ない。

ここまでで総合評価をすると、南昌山説が優勢である。

カムパネルラのモデル

次に、カムパネルラのモデルを胡四王山説と南昌山説とで比較してみよう(表2)。

 

前回のnote(56)でも説明したが、『銀河鉄道の夜』を読む限り、カムパネルラには次の条件が課せられる。

背の高い男の子
ジョバンニの同級生
しかも、授業の雰囲気から中学生
『銀河鉄道の夜』が書かれる前に亡くなった
カムパネルラの服は濡れていた

これらの条件を満たすのは藤原健次郎しかいない。したがって、ここでも南昌山説に軍配が上がる。

従来のさまざまな論考で挙げられたカムパネルラのモデルは妹のトシか、盛岡高等農林学校時代の友人、保阪嘉内の二人である。藤原健次郎の名前を挙げる人はほとんどいない。ところが、今回の考察では、妹のトシと保阪嘉内の二人は候補には上がって来なかった。しかし、それは恣意的ではない。今回のメインテーマは「町外れの丘」と「天気輪の柱」の正体を探ることにあった。それらの考察を進める際には、妹のトシと保阪嘉内の出る幕はなかったということである。

一方、『銀河鉄道の夜』が妹トシに捧げられた作品であることは間違いがない。『銀河鉄道の夜』を書き始める前年1923年の夏に賢治はサガレン(サハリン、樺太)旅行をしている。そのときの様子と、残された作品を見れば一目瞭然である(例えば、『サガレン 樺太/サハリン境界を旅する』(梯久美子 著、角川書店、2020年)を参照されたい)。

胡四王山モデルにおける岩手医大病院の看護婦さんは賢治の初恋の人なので、当然賢治の記憶から消えることはないだろう。しかし、カムパネルラのモデルにはそぐわない。

賢治お得意のハイブリッド・モデル

『銀河鉄道の夜』が妹トシへの挽歌だったとしても、賢治の心の中にはさまざまな過去の出来事が去来していただろう。それらをうまくミックスして『銀河鉄道の夜』が生まれたと考えるのが無難だ。

考えてみれば銀河鉄道そのものもハイブリッド・モデルである。岩手軽便鉄道がメインにあるが、花巻電鉄、東北本線、またサガレン旅行のときに乗った北海道やサガレンで乗った列車も参考になっているのだろう(渡部潤一「『銀河鉄道の夜』への基礎となる作品群」、『宮沢賢治と宇宙』谷口義明、大森聡一、放送大学教育振興会、2024年の第5章)。

このnoteで考察してきた「天気輪の柱」にもハイブリッドの香りがする。それは盛岡の静養院にある「後生塔」の存在である。

この「後生塔」には回すことのできる鉄輪がついていて、「お天気柱」と呼ばれている。静養院は賢治が下宿したお寺であり、この「後生塔」が賢治の記憶にあるのは明らかだ。ただ、丘の上にないので、「天気輪の柱」の候補から外れただけのことだ。

答えを決めない「深宇宙探査」

深宇宙探査(ディープ・サーベイ)。この言葉をご存知だろうか? 宇宙を深く探査する。見えてくるのは非常に暗い銀河だ。距離は100億光年を超える。宇宙初期に生まれた銀河を探したければ、さまざまな波長帯で深宇宙探査をするしかない。実際、私はこの目的のために、可視光、赤外線、電波の波長帯で深宇宙探査を行ってきた。おかげで、たくさんの生まれたての銀河に出会うことができた。

では、やる前から、何が見つかるかわかっていたのか? 答えはノーだ。やってみるまでわからない。それが深宇宙探査の醍醐味なのだ。

今回の「天気輪の柱」の謎解きは、まさに深宇宙探査と同じような感じだった。どんな答えが得られるかわからないし、答えらしきものを得たとして、それが本当の答えかどうか知る術もない。「天気輪の柱」は、まさに深い宇宙の底に沈んでいるようなものだ。

実のところ、「天気輪の柱」の謎に挑戦しようと思ったとき、どんな答えに行き着くのかまったくわからなかった。このnoteで紹介した答え、胡四王山説も、南昌山説も予想外の答えだった。二つとも、事前に予想もしなかった答えだ。

ただ、イーハトーブに出かけたことが良い刺激になったことは確かだ。

永久の未解明これ解明である

自然科学の問題に統一モデルはあるが、文学には統一モデルはない。『銀河鉄道の夜』も個々人が自由に楽しんで読むのが一番である。

賢治の著した『農民芸術概論綱要』に含蓄のある言葉がある。

永久の未完成これ完成である (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十三巻(上)、筑摩書房、1997年、16頁)

「天気輪の柱」に関して言えば、結局のところ、次の言葉に尽きる。

永久の未解明これ解明である

補遺:今回の考察の基本方針

今回、noteで展開した一連の「天気輪の柱」に関する考察の手法を説明しておこう。まず、「天気輪の柱」の候補についてはあらゆる可能性を考慮した(図1)。

図1 天気輪の柱の候補。

天気輪の柱の候補を吟味する際に採用した方法は以下の通りである(図2)。

[a] 可能性のあるアイデアをすべて列挙する
[b] さまざまな証拠、あるいは論拠を調べる
[c] 否定材料があれば、どんどんその説を捨てていく
[d] 肯定材料があるものを残していく
[e] 残った仮説の中から、最も信憑性のあるものを最終候補とする

ここでは、「深宇宙探査」のスピリットに従い、最初から答えを決めることはしていない。論理の流れだけを考慮している。

図2 天気輪の柱の候補の判定を行う方法。『銀河鉄道の夜』で説明されている天気輪の柱の特徴(図1)を満たす候補は青、満たさない場合は橙色で示した。実在しない場合でも、あるいは実在しても条件(図1)を満たさない場合でも、賢治の心象スケッチで天気輪の柱に置き換えられることがある。その場合は黄色で示した。

『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」の説明を図3にまとめる。これらを自然に説明できるモデルが要求される。

図3 『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」の説明。


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