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「宮沢賢治の宇宙」(49) 胡四王の北参道を駆け上り身体「どかどか」初恋の道

「天気輪の柱」の舞台は胡四王山

「天気輪の柱」の舞台は胡四王山である。これが『note「宮沢賢治の宇宙」(48)「天気輪の柱」を探して花巻へ』の結論だった。

その根拠となったのが『宮沢賢治の詩の世界 ー 胡四王山』に出ていた次の文章である。

花巻の街からは、見通しさえよければ、だいたいどこからでもこの山の姿を見ることができます。山頂にある数本の大きな杉の木が、まるで「トサカ」のように立っていて、ひときわ目立つ形をしているのが特徴です。きっと賢治も、この胡四王山の容姿を、いつも親しみをもって眺めていたことでしょう。 https://ihatov.cc/mount/02.htm

胡四王山の山頂には「見分けられる」巨木が立っていたのだ。『銀河鉄道の夜』には次の文章がある。

その真っ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくのはなが、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたといふやうに咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。ジョバンニは頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、冷たい草に投げました。 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、133-134頁)

また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。
小さな柱や塔では見分けられない。しかし、胡四王山の頂には、見分けられるものがあったのだ。これは、かなり決定的な要素になる。

ジョバンニの身体は、なぜ「どかどか」したのか?

ジョバンニは丘を登り、天気輪の柱に着いたときのことだ。

ジョバンニは頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、冷たい草に投げました。 

これを読むと、まさに息が上がって頂上についたようだ。丘の頂上というと、普通はある程度フラットになっている。いったい、どんな丘なのだろうと、不思議に思った。しかし、胡四王神社に行ってみて、その理由がわかった。

神社についてしばらくすると、息急き切って神社にやってくる子供たちがいた。その方向を見て驚いた。とんでもなく急な石段があるのだ。胡四王神社の北参道だ(図1)。

図1 胡四王神社の北参道から胡四王山頂上へと向かうときに登る石段。 https://ihatov.cc/mount/02.htm

鳥居のところからこの山道を見ると、まさに真っ逆さまに落ちていくような急勾配だ。これで合点がいった。

「ジョバンニの身体がどかどかするはずだ!」

この北参道を見て私の確信は本物になった。天気輪の柱のある丘は胡四王山である。

賢治にとって胡四王山は丘だった

賢治は文語詩に『丘』という作品を残している(未定稿に分類されている)。

森の上のこの神楽殿
いそがしくのぼりて立てば
かくこうはめぐりてどよみ
松の風頬を吹くなり

野をはるに北をのぞめば
紫波の城の二本の杉
かゞやきて黄ばめるものは
そが上に麦熟すらし

さらにまた夏雲の下、
青々と山なみははせ、
従ひて野は澱めども
かのまちはつひに見えざり

うらゝかに野を過ぎり行く
かの雲の影ともなりて
きみがべにありなんものを

さもわれののがれてあれば
うすくらき古着の店に
ひとり居て祖父や怒らん
いざ走せてこととふべきに

うちどよみまた鳥啼けば
いよいよに君ぞ恋しき
野はさらに雲の影して
松の風日に鳴るものを

賢治は胡四王山を「丘」と位置付けていた。賢治にとって、胡四王山は花巻の町外れの丘だったのだ。

賢治は胡四王山の頂上から初恋の君のことを想った。賢治、17歳の春のことだ。
叶わぬ恋ほど、心に残る。身体が「どかどか」した理由はこの想いのなせるわざかもしれない。賢治の想いを代弁して一首。

胡四王の北参道を駆け上り身体「どかどか」初恋の道

もっとはやく胡四王山に行くべきだった

胡四王山にある宮沢賢治記念館には何回も行ったことがある。今まで、なぜ胡四王神社に行かなかったのだろう。

「灯台下暗し」

格言はいつも正しい。


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