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💙私の住んでいた1972年(昭和47年)2😀コタツの話 #272

1972年(昭和47年)、札幌オリンピックの開催の時、1963年生まれの私は小学校2年生だったというとこになります。

その当時、私は、父親と母親と3人で、木造作り2階建ての6畳一間のアパートに住んでおりました。玄関を入ると左にちいさな台所。そこで母親が食事の支度。マッチでつけるコンロは、プロパンガスでした。      そしてその隣に、便所の扉がありました。台所の横に便所でした😂扉はの鍵は、木の鍵。気を横にづらしてはめ込むような。

6畳一間の部屋には、この時期、コタツがありました。そこでご飯食べて。たまーにみかんがあると嬉しくて。今みたい甘くなかったと思います。みかんは、すっぱいもの。でも美味しい。                 このコタツは、弱・中・強・切るのスイッチ。回すやつです😀寝る時は、コタツの脚(折りたたみの脚ではありません)を、丸い脚をクルクル回して、取り外して、壁に立ててました。

そうしないと部屋が狭いから寝れないからです😀。一番仲の良かった友達の家は、掘りゴタツした。潜って遊んだりしてました。それが羨ましくて。母親にうちにもほしいとねだりました。今、考えればアパートですから、不可能ですね。その時、39歳の母親は、笑ってました。39歳。わかーい。

暖房器具は、エアコンなんて勿論ないですからストーブでした。石油ストーブ。    コタツと石油ストーブ。ゴールデンコンビ。贅沢でした。                  楽しかったのは、石油ストーブの上で、お餅焼いて、醤油つけて食べて。お餅は、この時食べたのが一番美味しかったかなあ😋

箪笥もあったはずですし。どうやって寝ていたのか不思議です。

天井には、豆電球だったと思います。父親が「寝るぞ」と言って豆電球を切る。

親子三人川の字で寝てました。

朝目覚めると、学校に行く前に、コタツの中で、母親が服を温めてくれてました😂

ご飯、味噌汁、卵焼きを食べて。

私は、ランドセルを背負って「行ってきまーす」

外には、霜柱が立っていました😀




茶箪笥があり、その上に白黒テレビ。



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