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私の夢。

ヘッダーに使わせてもらった写真は藤の花。私の好きな花でもある。
紫や白が美しい花であるけれど、とても儚くほんの数日で散ってしまう。
だが、花というのはほんの短い間であれど力強く咲くから、本当に美しい。

私には夢がある。それは主体的に私自身の人生を歩みたいというものだ。
幼い頃に聞かれた将来の夢のようにある職業になりたいというものでも、有名になるとか金持ちになるなどの大きな夢でもないけれど、私は誰の手にも流されるのではなく、私個人の人生を自らの意思で生きたいと願っている。

私自身、長い間も親の言いなりとして流されながら生きてきた。
母は先回りしてなんでもやるから、娘は自ら考えることなく生かされた。
私も同伴した方が良い手続きでさえ、私がいると邪魔になるからと母は自分の力だけでやってしまったが、今となっては異常さを感じられている。

こうして自分で考える力を養うことがないまま、大人になった私は生まれつきの発達障害も相まって社会に対して生きづらさを抱えることになった。
今考えると母は娘の力を信じていなかったのかな?と思い、悲しくなった。

過去も私はこうなりたいと母に伝えても、いつも口だけだと否定された。
母はおそらく娘にも自分のようにしっかりして欲しいと思っていたかもしれないけれど、私と母では生きてきた時代が違うし、母の価値観は古すぎた。

私は母のコピーではないのだ。私は私という個人として生きたい。
たったそれだけのことですら、今の社会では叶うことが難しくなっている。
社会不適合者という言葉が存在するが、現代の日本社会に本当の意味で適合出来る人間は一握りだと思うし、事実定型発達者すら簡単に病む世の中だ。

だけど、こんなクソみたいな世の中であっても私は生きたい。
自らを陰キャと卑下したくないし、発達障害だろうが定型発達だろうが、それすら関係なしに、私は私として自分の人生を主体的に生きていきたい。

精神的に追い詰められて私は死んでしまった方が良いのかな…と思う時期もあったけど、それでも私は自分の生を諦めたくないし、大きな流れに従うことが是とされる日本社会だからこそ、主体的に生きる意義が存在するのだ。

花は命短くとも、力強く咲き誇る。
人間の人生だって数十年程度でしかないのだから、この世界に生が与えられた以上は悔いなく生きていきたいし、私は私という花を咲かせていきたい。

何歳だろうが、夢を見るのに遅いってことはないと信じたい。
今の夢に手が届きつつある頃には、新たな夢が生まれるかもしれない。
クソみたいな世の中と思いながらも、こう思うことが出来ること自体、私は本当の意味での絶望にはまだ至っていないと希望という諸刃の剣を胸に抱きながら、私はまだまだ生き続けるのだろうと思いたい。


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