見出し画像

繊細さと鈍感な世の中と

私は複数の人から感受性が強いと言われたことがある。
実際、私自身も己の感受性の強さを痛感して自覚しているし、だからこそ物事に感動することも出来れば、世の中の鈍感さに苦労することがある。

いつ頃からか、私は人混みの中に長時間いると頭痛がするようになった。
幼少期や若い頃は人混みが大丈夫だったはずなのに、今ではコロナ禍もあってか数年間ぐらい都内に行っていないほどである。

私はこんなにも繊細だったのかと驚いたが、むしろ昔は母の教育などで本来の感受性にフタをされていた状態だったのでは?と思うようになった。
母が言うように慣れでどうにか出来る話ではもうない。

実際、私が作業所で働けなくなった要因に人の多さと機械の音が関係ある。
作業所に通い始めた当初こそ人が少なかったが時間が経つにつれ人が増えていき、機械の音にも耐えられなくなってきたのだ。
私は人が少なく静かな環境かつ休憩時間は一人でいられないと耐えられないほどには脆く、組織勤めが絶望的に向かない気質だと思い知らされた。

今の世の中は鈍感な方が得をするように作られている気がする。
繊細で感受性が鋭い人ほど割を食うような気がしてならないし、うちの家族なんか鈍感だからこそ世の中を生き続けられたように見えてしまう。
だが、私はそんな家族の鈍感さが好きではない。

比較的最近の話だが、私は病院でのカウンセリングの中で自分はHSP(ハイリーセンシティブパーソン)の疑惑があるのでは?と思うようになった。
カウンセラーさんからも感受性や共感力が強いと指摘されたほどである。

ただですら発達障害(ASD)を抱えて生きづらいって言うのに、その上でHSPも重なっていたとしたら、そりゃ鈍感な家族には珍獣にしか見えないわけだ。
実際、家族も私との接し方に困っている節がある。サバンナに生きる野生動物と限られた環境でしか生きられない珍獣では差がありすぎるのだろう。

私という繊細な珍獣が現代社会という弱肉強食のサバンナで淘汰されずに生き残るにはどうすれば良いのだろうか?
私は家族のようにサバンナの野生動物にも鈍感にもなれない。珍獣には珍獣の能力や強みを生かすしかないのだろう。

この鈍感な世の中で繊細さや感受性の鋭さが評価される場所を探そう。
それは広い砂漠の中でオアシスを探すようなものかもしれないが、少数派だからこそ多数派にない能力を活かすことが出来ると思いたい。

能力が活かせるなら、組織勤めでもフリーランスでもどちらでもいい。
私は過去のトラウマもあってか組織勤めが絶望的な状態であるが、恐れを癒すことで選択肢を増やしたいと思うようにはなってきている。

鈍感な世の中とはいえ、今の時代は多様性がうたわれている。
それが凶と出るか吉と出るかはまだまだ不明瞭だけど、珍獣にも生きやすい世の中になれば、結果的に社会も良くなると私は信じたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?