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なんかしんどくなったら一度仏教思想に触れてみるのススメ

突然ですが、皆さんは人生を楽しんでいますでしょうか?僕は楽しいこともありつつも、やっぱり総じてしんどいなあと思うことの方が多い人生です。自己紹介でも触れましたが、決して順風満帆ではありません。いや、寧ろ逆風ばかり吹いています。ですが、こうして何とか日々を生きているような感覚です。そういう中で、家族や子供といった生き甲斐もあります。しんどい人生ですけど、最終的には幸せだなと感じています。全く思うままにならない人生ですが、結果的に幸福感が高い日々を過ごしています。

ちなみに言うと、僕は特定の宗教を崇拝しているわけではありません。多くの日本人の皆さん同様、神社にも行きますし、お寺も行きます。クリスマスはパーティをしますし、結婚式で神に誓いました。いわゆる、多神教です(無神教という人もおられるかと思いますが、信じる神が沢山いるのが日本人と捉えています)。特定の宗教に偏っていないとも言えるかもしれません。

そんな僕ですが、人生の苦しみを味わっている時、ふと思い出したように触れる宗教があります。それが仏教思想です。仏教の教えはとても現実的であり、そしてまた深い。これから説明することは浅薄な知識を披露するようで恥ずかしさもありますが、分かりやすくてタメになる思想なので、恥を忍んでご紹介します。

先述の通り、僕は多神教であり、特定の宗派に拘っておりませんが、勿論、読者には神道、キリスト教信者、イスラム信者、等々仏教以外を信じる色んな方がいらっしゃると思います。それらを否定するつもりは一切ございません。ただただ、特定の宗教を持たない方に、何かヒントにでもなればと思って書くだけです。もしかしたら、これから書く内容は他の宗教でも似たような教えがあるかもしれません。すみません、そこは勉強不足ですが、多めに見ていただけると幸いです。

仏教における「苦」

さて、今回仏教思想で注目したいのが「苦」の考え方です。日本語にも「四苦八苦」という言葉があります。こちら、三省堂新明解四字熟語辞典によると、

「非常に苦労すること。たいへんな苦しみ。もと仏教の語で、あらゆる苦しみの意。」

とあります。四苦とは生老病死、八苦は愛別離苦、怨僧会苦、求不得苦、五蘊盛苦とのことです。四苦では人間は生まれる、老いる、病む、死ぬというすべての人が経験することを自分では制御できない苦しみとして捉えます。八苦の方も愛する人とはいつか必ず別れないといけない苦しみ、嫌なものに出会う苦しみ、欲しいものが手に入らない苦しみ、自分の体なのに自分でコントロールできない苦しみを言っています。

これら、殆どの人が思い当たる節があるのではないでしょうか。流石に死の苦しみは経験できないですが、病気の苦しみや愛別の苦しみ、日々生きていても嫌だなあと思うことが多々ありますよね。あれが欲しい、これがしたいが叶わない苦しみ。

ではこれらはなぜ苦しいんでしょうか?

そのヒントが実はこれまでの文章でも書かれています。少し考えてみてください。

それでは答えを言います。

「制御できない」「コントロールできない」からです。人は生きていて知らず知らずのうちに自分の思いのままに行って欲しい、思いのままにしたいと思ってしまいます。自分にはそれができると思いがちです。ですが、世の中は四苦八苦、思いのままにならないことが沢山あるのです。それを無理やり思いのままにしたいと思うから、余計に苦しくなっていきます。

コントロールできないことは、最初からコントロールしようとしない

私のエントリーでも時々書いていますが、仕事を成功させたいとみんながそれぞれ思っているでしょう。ですが、成功するときもあれば失敗に終わることもある。なぜ失敗に終わるのか。努力が足らなかったからなのか。能力が低いからなのか。いや、殆どの場合は運です。言い換えれば、成否は自分でコントロールできる範囲を超えているからです。恐竜は何故滅んだのでしょう?頭が悪かったからでしょうか?環境に適することを怠ったからでしょうか?答えは運です。たまたま、新しい環境には合わなかったから滅んだのです。2021年現在で生きている生物は、たまたま環境に適した能力を有していただけです。

ですが、何故か人は成否をもコントロールできると過信しがちです。ある経営理論を持ち出して、こうすれば上手くいくと考えがちです。実はこの時点で既に「苦」に満ち溢れた世界にどっぷり浸かっているのです。

ここで、一旦、成否は神のみぞ知る、自分にはどうしようもできないことだと諦めたら。何となく、少しは気が楽になりませんか。それどころか、成否はさておき、できることを一生懸命やろうと思う人もいるかもしれません。結果を求めるから苦しくなるのであって、結果は風に任せてしまえば、苦だったことが苦と感じなくなるのです。実は四苦八苦も自然とあるがままに受け入れることができれば、苦ではなくなるのです。

こうは言いつつ、じゃあ自分はどうかと言うと、ふと気づけばやはり成功を求めていたり、成功に導きたいと考えていたりします。ともすれば、自分はそれができるのではないかと過信しています。そのように考えるのもまた、人間の本性なのです。地位や名誉を得たいと思うこと。お金を得たいと思うこと。人から称賛されたいと思うこと。これらは非常に本質的な人間の欲求です。なかなか無くそうにも無くせないのが事実であり、私も常にこの葛藤に勝ったり負けたりしています。だからこそ、コントロールできること、できないことの境界をしっかり分けて、できることだけ一生懸命頑張るのが良いと振り返る時間が必要なのです。

空(くう)という考え方

もう一つ、と言っても、もっと沢山ありますが、仏教で大事な考え方として、「空(くう)」という考え方があります。「色即是空、空即是色」とつづく般若心経をご存知の方も多いと思います。この場合の色とは物質を指します。物はこれすなわち、空なり。空はこれすなわち、物なり。なかなかの禅問答ですし、これを理路整然と説明できるほどの知識が私にはありません。ですが、これを受けてみうらじゅんさんが分かりやすく説明されていたので、それをご紹介させていただきます(なお、私はみうらじゅんさんがとても好きです)。

みうらさんは人は何も無いところ(=空)から産まれ、そこに存在しているかのように生きているが、自分がそう思っているだけで本質的には空であり(まさに色即是空)、そして最終的には死んで灰になる(=空)。そのことを面白おかしく、自身の葬儀場見学の話と重ねて話をされていましたが(葬儀場では最終的に頭をバーナーで焼かれるそうです)、要するに、色(物質)があると思っているけれど、結局のところ、どんな人生を歩んでいようが、最終的には頭を焼かれて粉々の灰になって終わるのが人生だということです。なので、モテたいとか金が欲しいとか地位が欲しいとか、結局皆粉になるだけなのに、そういう欲求は虚しい、という考え方です。

これって、本当、核心を突いていると思いました。先ほどの四苦八苦がそうですが、まさに何かを追い求めて、自立的に生きようとするからこそ、実は逆にどんどん自分を苦しめているということ。そこから解き放たれれば、一気に苦しみが無くなっていきます。

「自分探し」から「自分無くし」へ

みうらさんは同じ講演の中で、「自分探し」より「自分無くし」を推奨されていて、これもまた金言です。要するに、自分とは何者かを求めるのではなく、自分という存在をどんどん無(空)に近づけていく作業こそ、本来我々がするべきことであり、このことこそ、仏教的にはより悟りに近づけるということです。そして、実はそれは仏教でなくても、我々の幸せという観点から考えると、自分を探すより自分を無くす方が幸せへの近道ではないかなと思うのです。

みうらさんの面白いのは、この事例として、井上陽水さんの「夢の中へ」を引用します。

「探し物は何ですか?見つけにくい物ですか?
鞄の中も机の中も探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気ですか?
それより僕と踊りませんか?」

私は初めてこの曲を聴いた時、正直なところ、歌詞の意味が全然分かりませんでした。井上陽水さんという不思議な魅力のある方が描く、まさに「詩」として捉えていました。ですが、この自分無くしという概念を知ると、自分無くしの本質を歌っていることに気づくのです。自分探しなどどうせできないからそんな無駄なことはさっさと辞めて僕と踊った方が楽しくて良いよ。これは本質だと思います。そういう姿勢の方がきっと幸せだと思います。

繰り返しですが、私は特定の宗教に肩入れする気は一切ありません。あくまで仏教思想でこういう考え方があり、これを取り入れれば気持ちが楽になりませんか?程度のご紹介でした。ご自身が信じる宗教で似たような考え方や気持ちが楽になる別の方法があれば、そちらで構わないと思います。

いずれにせよ、人は最終的には「幸福」を求めて生きていると思います。幸福の本質とは何なのか。お金なのか、地位なのか、名誉なのか、自分を確立することなのか。よくよく考える上で、こういう仏教思想に触れてみるのも良いのでは、というささやかなご提案です。

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