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2022年達観 ~(残念ながら)分断の年か~

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します。

さて、タイトルからネガティブに煽ってしまいましたが、これまでの流れから見るに、残念ながらポジティブな見通しは描けない一年になりそうだなと思っています。

理想としての「共創社会」と現実としての「競争社会」

21世紀に入り、加速度的にインターネット技術が進歩し、ネットワーク社会が本格的に発展していきました。この約20年間で生活も随分便利になり、改めて振り返るに、技術革新の凄さに驚かされます。特にSNSでは簡単に世界中の誰とでもコミュニケーションが取れます。そう言えば、1999年か2000年頃に、当時有名人が個人の公式HPを開設するのが流行りはじめ、私も某メジャーリーガーの掲示板にメッセージを投稿したことがあります。なんとその方から直接リプライがあり、感動したのを今でも覚えています。今となってはこんなことは日常茶飯事かもしれませんが、兎に角、あらゆる人との距離が近くなったのが、このインターネットの凄さだと思います。

他方、逆説的ではありますが、オンライン上の対立も日増しに強くなっています。意見が合う者同士の結びつきはより強固になる一方、意見が合わない者同士の対立は深まるばかりです。インスタやYouTubeの登場でこれも変わりつつありますが、未だSNSもあくまで文字による表現が主体ですので、誹謗中傷の強さが目立ちます。例えば今ですとコロナの捉え方、ワクチンの捉え方に対する対立構造は顕著であり、Twitterを見てると必ず毎日どこかで不毛な言い争いが起きています。

結果として、世界が近くなった面もある一方、より一層遠くなり、分断が拡がっている面も出ているのが現状です。これは人によって捉え方が異なると思いますが、私は後者の面がトランプ登場からコロナ発生という流れの中で、ここ数年で決定的に強まっていると危惧しています。

私の尊敬している人物の一人に、チームラボの猪子社長が居ますが、猪子さんは今のように定着する随分前から「競争から共創へ」というキーワードを話されていました。これはインターネットのポジティブな面を最大限に生かし、争って切磋琢磨する時代から、共に協力しあって新たな価値を生み出していく時代になる、という話です。このこと自体、私はもろ手を挙げて賛同します。今までもそしてこれからも、共創社会を作り上げるべく、微力ながら尽力するつもりです。

一方、そういう理想とは逆に、競争、というか競争でもない争い事を過激化させているのも、インターネットの裏の一面としてあります。特に、実名で顔を出して活動せざるを得ない有名人がSNSをやる場合、今はデメリットの方が大きいかもしれません。理想としての「競争から共創へ」を追求し続けないといけませんが、これは平和への想いと同じように現実としてそうではない部分があり、ともすれば後者が増大するリスクを常に孕んでいるのが人間社会の常であると自覚する必要があるように思います。理想社会を「イマジン」しつつも、現実をしっかりと直視していくべきと感じています。

争いを避けるために何が必要か?

では、そういったインターネットのネガティブな面を取り除くにはどうすれば良いでしょうか?残念ながら特効薬はありませんし、そもそも全ての事象は表裏一体ですので、取り除くことは不可能です。ですが、減らすことはできます。

一つは、実名を避けるということです。私自身、このnoteは匿名で書いています。Facebookのような実名SNSも休眠状態にしました。有名人の方はそれが個人ブランディングにもなるので、逆に匿名にするメリットもあまりないですが、私のような一般人であれば、圧倒的に実名はリスクが高いと思います。

ネット黎明期、当時大学生だった私は色々とネットサーフィンをするのが好きでした(ネットサーフィンという言葉も死語ですね。。)。そういう中で、当時2ちゃんねるという匿名掲示板に衝撃を受けました。まさに無法地帯、なんという世界だ、、、と正直なところ絶望的な感覚を受けたのを覚えています。ですが、実は今はああいう世界こそ、インターネットの本質であり、SNSの本来あるべき姿なのかもしれないとも感じています。

勿論、喧嘩や誹謗中傷を肯定する意図は一切ありません。できれば平和に穏やかに過ごしたいものです。一方で、人間社会において、大小の対立は避けて通れません。とすれば、どうせ対立するなら双方匿名の方が「まだまし」なんじゃないだろうか、という理解です。実名の対立はとても苦しいです。周りの人たちや場合によっては家族まで巻き込みます。SNSでの対立で何か有益な結論が得られるならまだしも、はっきり言って不毛です。それであれば、誰かも分からない者同士が、好き勝手に喧嘩して終わる方が後腐れもないし、ましだということです。とてもネガティブで非生産的な捉え方ですが、これが現実だと、昨今のSNSでの対立を見て突き付けられた想いです。実名により、実生活にも影響を与えるような事態は避けるべきだと思っています。

もう一つは、そもそもオンライン上で議論をしないことです。このnote開設をする際にも書いたと思いますが、ここで皆様と議論を交わしたい意図は一切ありません。私の書く考え方に賛同していただければ勿論大変嬉しいですし有難いことですし、「いいね」はいつでもお待ちしておりますが(笑)、否定的に読まれる方がいらっしゃるのも十分理解しています。

FacebookやTwitterでも、本来は議論をすべきではないと思っていますが、残念ながら人が何かの考えを表明すれば、良いと思う人も居るし、違うと思う人も居ます。そしていずれの場合も、同じように意見をリプライしたくなります。肯定的なものだけ残すのであれば良いですが、先述の通り全ての事象は表裏一体です。肯定もあれば否定もある。否定を少なくするには、肯定も少なくするしかないのです。ですので、私はオンライン上で議論するつもりはありません。宮沢賢治の、アメニモマケズで有名な「でくのぼう」の姿勢です。褒められもせず苦にもされず、そういう存在に私はなりたい、そう思っています。(話は飛びますが、こう考えると宮沢賢治の思想は極めて先鋭的ですよね。今の時代のための言葉かと思わされますし、これこそ人間の本質なんだと改めて理解できます)

21世紀は「共創社会」を創れるのか、はたまた「分断世界」になるのか

ネットワーク社会が成熟し、またコロナウイルスのような世界を席巻するウイルスに翻弄される時代において、我々はともすれば分断された世界に堕ちてしまう危険性が常に存在しています。過去の歴史も物語っています。この分断が拡がることで、2度の世界大戦を人類は経験しました。場合によっては第三次世界大戦も現実感がより一層増しているのが昨今の状況だと感じます。米中や米露の対立、宗教問題、人種問題、マイノリティの問題。そういった対立構造を加速させる装置としてのインターネットという側面。ダイナマイトが武器になるのと全く同じ構造です。

一方で、SDGsの取り組みのような、共創社会を目指した取り組みが新たな軸として生まれてきています。今までの経済発展一辺倒から別軸、別の価値基準としての考え方の導入。

タイトルからネガティブに煽ってきましたが、実は個人的には最終的にはいずれ「共創社会」に落ち着くはずだ、という希望的観測も持っています。なぜなら、やはり人は楽しく生きたいからです。第一次世界大戦から数十年で第二次に突入したのと違い、(世界大戦という意味では)その後約80年間世界大戦は起こっていません。2度の大戦の反省として、何とか楽しく平和を全体としては維持しているのが現状であり、同じようにきっと本格的な共創社会が訪れるのであろうと思っています。

しかし重要なのは、その共創社会がすんなりとスムーズに成立するのか、争いの中でようやくたどり着くのか。その岐路に、この2022年は立っているように感じていますし、残念ながらこれまでの人類の対立の歴史と同じように、後者を経験しないとたどり着けないのかもしれない、と感じるところもあります。

さてさて、人類はどこへ向かっていくのか。何十億分の一でしかない私たちが何ができるのか。子供たちに何を遺してあげられるのか。世界を見つめながら、家族をしっかりと見つめる一年にしたいと思っています。

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