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最後に見た空

もうきえてしまいたい。
生きることも嫌になった。でも死ぬこともできない。このままこの場から消えてしまえたら。面倒なことを全部捨てて、自由になれたら。

そんなことを投げやりに考えて、渋谷のビルのカフェで窓の外を眺めていた。そうしたら、その時本当に、何もかもを捨てることになってしまった。私は消えてしまったから、その後のことは知らない。だけど確実に私はそれを見たし、衝動的に行動したのだ。最後の私は結構果敢だった。だから、悔いはない。

最初それは地震かと思った。賑やかなカフェの店内で、わかるほどの地響きと揺れだった。だけどそれは地震ではないと、すぐにわかった。なぜなら等間隔に、リズミカルに揺れていることに気がついたからだ。まるで大きな生き物が、ずしんずしんと歩いているような揺れ方だった。隣のテーブルの女子高生が、あれみて!やば!と声をあげたので、店内は騒然となった。私も窓の外へ目をやると、同じ目線の割と近くにそれはいた。ゴジラだった。
店内の人々は次々に、スマホを窓へ向けていた。ゴジラとかうける!とキャハキャハ笑っている女の子がいる。やばいやばいやばい…と繰り返す男性がいる。みんな興奮している。ちょっとぞっとしたのは、ゴジラの下半身に煙が上がっていることだった。それはビルをかき分けて進んでいた。つまりその煙の正体は、崩れる建物と電信柱から上がる火花で、その足元ではたくさんの人がまさに今、殺されているのだと思った。
そして私は、相変わらず冷静に、あの足元にいられたらいいのに。と思ったのだ。急いで会計を済ませて、外へ出た。そしてゴジラの方向へ、走った。

ビルのエレベーターは思いのほかスムーズに動いた。ビルの外へ出ても思ったような騒ぎではなく、誰もがスマホを動画モードにして空へ向けて立ち止まっていた。静かだった。
その瞬間、地響きと共にぎああという、下手くそなバイオリンのような音が爆音で鳴り響いて、そいつの顔が空を隠した。前にいた女性が、きゃあ!と悲鳴をあげて後方へ走り出し、それをスタートの合図にしたみたいにたくさんの人がうわっと動いた。
私はその場に頑張って立ち尽くしていた。あの足元へ。あの足元へ行けば、私の夢は叶う。
だから、私はゴジラの方向へ、走り出した。何人もの人とぶつかりながらたどり着いたその場所は、ホコリと焦げた匂いで目を開けていられない。ビルが崩されて瓦礫が山のように積み重なり、空はどす黒い煙と砂埃で見えない。今も倒れていくビルの轟音と地響きと、悲鳴。周りを見渡そうとして目が開けられず、どうしても咳き込んでしまう。危険を感じる匂いがする。どこかからガスが漏れているのだろう。また、ゴジラがけたたましい声をあげた。ちかい。目の前の電柱が、いとも簡単になぎ倒されるのを見た。目の前でばちばちきゅいん!と音を立てた。うわあ!と叫んで男性が複数人逃げていった。その電柱の影に、3歳ほどの女の子が、ママ!と泣いているのを見た。私はその女の子のそばへ、びっくりするほどの素早さで駆け寄って、しゃがんで抱きしめた。電柱が倒れて静かになるまでその子を抱きしめていた。遠くで何かが爆発している音が聴こえる。やっと土煙が途切れ途切れになって、景色が見えるようになった時、雑居ビルの階段を少し登ったところから若い男性がこちらへ手を伸ばしているのを見た。「早くこっちに!早く!」と叫んでいる。女の子を抱え上げて、夢中でそちらへ走り寄ろうとして、ふらついた。子供って意外と重いな。私って足腰弱いな。でもこれが最後だからせめて最後は役に立って!踏ん張れ!と思った。地面だか瓦礫だかなんだかわからないぼこぼこした足元をガシガシ踏みしめて、階段の方へ必死で近寄った。「この子を!」と半ば投げるように女の子を放り上げたその瞬間、私の体は宙を舞っていた。女の子が男性に抱き止められるのを斜めになった視線で確認して、私は笑ったのだ。空がきれいな青だった。女の子が幸せになればいい。ずっと応援してる。


「そうです、それが最後でした」と男性は語った。「てっきり僕はその女性がその子供の母親なのかと思っていました」と続けた。目の前にいる男女は、俯いて涙を拭いている。「ちょっと目を離したすきに、煙で見えなくなってしまって…人混みにながされて、はぐれてしまったんです。この子を助けてくれて本当に、ありがとうございました」「いえ、助けたのはその女性です。誰もが逃げていくとき、突然向こうから現れて、倒れる電柱からこの子を守っていました。小さな体で。そして僕の方へこの子を渡して、その瞬間にー」少し声を詰まらせて彼は語った。「あいつの尻尾に跳ね上がられて、空へ飛ばされたのです。」男女は喉を詰まらせた。「その後、その方はどちらに…行方はわかっているのでしょうか」「今、探してもらっています。でもこの状況では難しいかもしれません。事態が収束するまで数ヶ月はかかるでしようし、火事もまだ治まっていません。被害者は万を超えていると聞きます。」「そうですね…。なにか、覚えている特徴はありませんか?」「そうですね、小柄で…髪を一つに束ねていました。それからデニムに、パーカーで。…MVU。」「MVU?」「はい、MVU。確かにそう書いてありました。胸元に。黄色のロゴで。」「あなた、聞いたことがある?」「いや、今はピンとこない。どこかの大学だろうか。学生さんなのだろうか。」「学生さんとは見えず、若くもないけどおばさんでもない、といった年齢に見えました。」「ちょっと調べてみよう。」彼はスマホを手に取った。
そしてさらなる混乱に陥ったのである。(続く)








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