守屋友樹『潮騒の部屋』
鑑賞した作品について身体(そこで見たパフォーマンス、絵画、舞踊の中の、そしてそれを見るわたしの)に重点を置きながら、考察するシリーズ
守屋友樹『潮騒の部屋』
会期|2024年 4月4日(木)- 4月21日(日)
会場|半兵衛麸五条ビル2F ホールKeiryu
人のいない遠くに山の見える風景、背の高い草っ原、雲と光…プリントされた風景の展示の中には額装されずにプリント紙の上辺だけを留めて紙がたわんでいるものもある。会場の奥までたどり着くと山並みとそれを取り囲むように奥へと広がる海岸線を写した写真が壁にかけられている。その前には座って鑑賞できる箱型のベンチがあって、壁の写真を基準にすれば右にずれているようだ。ベンチの左端に腰掛けて何か発見があるかとぼんやり写真を眺める。
あれ、不意に海岸線の波が動きだす。見えていたものがぐらつき、つかもうとする輪郭は常にぼやけてくる。守屋は本展を北海道東沿岸部での戦争遺跡トーチカをめぐるフィールドワークをもとに構成しているという。トーチカは中に兵士が篭って銃を撃つことのできる小窓を備えた巨大な箱のような建造物。守屋はトーチカをピンホール・ルームとして、その小窓から入り込む光を写し撮ったという。レンズで光を集めるのではく、露光時間を長く必要とするピンホール・カメラは、露光時間分の像の変化も記録する。わたしが見たのはシャッターを押して切り取ることのできない風景を行き交う風のざわめきや波間の光と影だった。それはトーチカの中でいつ終わりがくるのかわからないまま、何かを待ち続ける人が緊張と緊張の合間に見ていたものと重なるのだろうか。
守屋は戦史資料や聞き取りの中でも、トーチカについての記録があまりないこと、そうした記録すべきとされてこなかったものの記憶が想像可能なのかを考えている。記録を辿ることができないときに、風や波の音といった不変的な存在を媒介に想像を試みることになるのではないかと作家はいう。それは「言葉にできない手触りとしての記憶」だと。今回映しとられた風景は、直接経験したことのないことを実体験として捉えようとしたときに、道筋がありすぎてどこから手をつければいいのかわからない、そんな途方もなさと似ている。本州にいるわたしが北海道の土地との距離、過剰な自己防衛から出たような戦争が頻発する世界と今のわたしの日本での暮らし、そしてそこが戦場だった時代との距離。動き出した写真はそんなわたしの前に広がる距離を見たときの茫然としたまなざしを映しているようでもあった。
会場内ではフィールドノートにピンホール・ルーム内で投影される像をノートに鉛筆で書き写したものも掲示されている。パンフレットにドローイングについての記載があるからそのノートが何を描こうとしているのかかろうじてわかるようなものだ。写真のほうは機械的な仕組みを通じてその像の時間の厚みと記録された風景の奥行きが見えてくるのに対して、同じ像でも描き手の記録の跡が平面にわずかに(ほとんど解読は難しいほどに)残っているドローイングは記録のないことを記録できないことに悶々とする人そのものにも見える。トーチカをめぐる守屋の展示は、トーチカと守屋(わたしたち)との距離を記録している。その距離が今後変化しうるのかみてみたい。
参考
・ピンホール・カメラについて
「山中信夫について(前編)三輪 健仁(東京国立近代美術館)」
・配布資料から
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