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纏うファッション・見せるファッション

溶けこむ美しさ

コロナ禍以前のことだが、インドネシアからの観光客のためのモデルコースを作ろうというプロジェクトで、江の島の撮影に同行したことがあった。
明るい日差しのさす冬の江の島。カメラマンの求めをあらかじめわかっていたかのように、自然に風景を指さす2人のモデルさんの服装から原色は目に飛び込んでこない。くすんだ濃いブルーにあずき色。そしてグレーあるいは黒でまとめたファッションだ。海をバックにした風景にも、島内の風景にも、あるいは仲見世通りの往来にも決して浮くことがない色使いである。
 もちろん個人の好みの問題もあるので、一概に言えないが、彼女たちのファッションを見て、ファッションには大きく二つの種類があることを思い出した。纏うファッションと見せるファッションである。

美しさは誰のためもの?

纏うファッションでは、美しさを纏う。見せるファッションでは、美しさを見せる。両者の違いは、美しさの在処だ。纏うファッションでは、美しさはファッションの中にある。見せるファッションでは、見せるべき美しさは、ファッションそのものというより、着ている人の方に求められる。
 纏うファッションでは、着ている人の美しさは、あえて隠す。ムスリムのファッションが、髪を隠し、身体の線を隠すのは、それが纏うファッションだからに他ならない。こういった美しさは、ごくごく身近な人とだけ共有できればよい。
これに対して見せるファッションでは、着ている人の美しさを見える形で見せなければならない。いや、もっと言えば、着ている人が映えるという意味で美しくなければならない。この要求に耐えられる人がさほど多くないことは自分自身を振り返ればわかることだ。

出口の見えない時代

かつて、イスラーム教徒用にリメイクした着物が卒業制作として提出されたことがあった。日本におけるハラール[1]ファッションの先駆けである。イスラーム教徒の女性の装いも、また和装も、ともに纏うファッションだからこそ成り立つ試みだったと言える。美しさを纏って、自然の中に溶けるように暮らすための服が和服であるとも言えそうだ。
余談ではあるが、纏うファッションで暮らしていた人々が、見せるファッションの洗礼を受けて、見せる自分がいないことに今更ながらに気づき、たとえばブランドに走り、あるいは、自分探しに忙しかったのは少し前の話。満たされない承認欲求と一向に上がらない自己肯定感のスパイラル。

完璧な色付け

 さて、「美しさ」はどこにあるのだろうか。見せるファッションでは、自分自身に、他方、纏うファッションでは自然の中に美しさを見出すことになろう。聖典クルアーンは、《アッラーの色染めというが,誰がアッラーよりも良く色染め出来ようか。わたしたちが仕えるのはかれである。》とする(雌牛章138)。つまり、もっともよく色づけられるのは、唯一絶対の創造主、アッラーということなのである。自然の美しさを纏うということは、アッラーの創造された完璧な色付けを纏うということなのである。そこではない面をさらけ出さなければならないという強迫観念からも自由だ。むしろ、そうした色付けの中に溶けだして自分を守ってもらうのが、つまり纏うファッションであるとも言えそうだ。
だから、纏うファッションの色使いは自然環境に大きく左右される。砂漠ではモノトーン、熱帯雨林では原色。四季があれば、季節ごとに纏う色も変化するというものだ。アッラーの色付けを纏いながら、自分を大切にする。ひたすらに目立つ色付けを使いながら、自分をさらけ出す見せるファッションでは、誰も自分を守ってはくれない。

何色ですか?

 「赤だ、青だ、緑だ、オレンジだ、同じ政治的主張を掲げる人々のまとまりを色で表現することがある。2000年以降は、カラー革命という言葉も誕生した。アメリカにトランプ政権が誕生して、人々の色分けがグローバルレベルで一気に加速する状況だ。そこにいるのは、自分たちの存在と主張を「見せよう」と躍起になっている特定の色を持った人々の姿だ」と書いたのが2017年。あれから16年。オレンジ革命のウクライナは、1年にわたる戦禍にあえぎ、パレスチナでは、イスラエルのハマス殲滅の地上侵攻と空爆の挟み撃ちで既に多くの民間人が命を失い、病院が機能停止を余儀なくされる中、絶望だけが跋扈している状況だ。纏うことも見せることもままならない、多様性を排した白黒2色択一の世界。
聖典クルアーンは、《篤信という衣装こそ最も優れたものである》(高壁章26)と教える。縋るべきは、国家や民族といった集団の排他的な利益でも幸せでもない。すべてを創造し続け、微に入り際に穿って色付けを施し続ける創造主に対する畏敬の念である。

自然をまとう

モデルツアー作りの撮影取材も終盤を迎え、新江ノ島水族館の相模湾を臨むデッキをイルカのプールへ移動中のこと、富士山のシルエットがひときわ目を引く、相模湾の夕暮れに包まれた。イスラーム的には、思わずアッラーを称賛せずにはいられないような光景である。まさにアッラーが存在する徴。集団からはすでにかなり遅れていた二人ではあったが、デッキの手すりに駆け寄り、身を乗り出すようにしてシャッターを盛んに押していた。
 二人のシルエットが、風景に溶け出していたことは言うまでもない。イスラーム的な纏うファッションに身を包んだより多くの人々もまた、江の島の景色に溶けこむ光景と、切れ目のない創造主の色付けを思いつつ。

[1] 「ハラール」とはイスラーム法に照らして許されている、合法的であるとの意。

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