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「アッサラーム・アライクム」は「こんにちは」か?

「あなたがたの上に平安あれ」

知らない人から「あなたがたの上に平安がありますように」と挨拶されたら、どう思うだろうか。話している方は、満面の笑みだ。おそらく、日本人の多くは、引いてしまうのではないだろうか。「カルトの勧誘か」と。「こんにちは」に慣れている人々には、「こんにちは」と話しかけておくのが、それは無難である。現に、海外の日本語講座で教えられている日本語の挨拶は、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」である。しかし、この挨拶が、世界の20億人に通じる、あるいは、20億人が使っていると知ったらどうだろうか。もとはアラビア語の挨拶。「アッサラーム・アライクム」である。

それは、「アッサラーム」という定冠詞「アル」付きの平安(サラーム)という言葉(発音の規則上「アッ」となる)と、「あなたがたの上に」にあたる「アライクム」からなる表現である。アッサラームは、定冠詞がついているので、お互い了解済みの、あるいは、平和・平安という状態そのものを指す言葉とみることができる。そして、それが向けられているのが、「あなたがたの上に」ということである。

「アライクム」は、前置詞の「アラー」に2人称複数形の接尾型人称代名詞「クム」が付いたものである。ちなみに、アラーという前置詞は、単独では「アラー」なのだが、これに接尾型の代名詞が付くと、「アラー」が「アライ」となるため、「アラークム」ではなく、「アライクム」となっている。こうして、「アッサラーム・アライクム」は、「こんにちは」あるいは、「ハロー」や、「ニーハオ」とも違って、誰に向けられているかが明示されている挨拶になっている。

「あなたがたの上に」とは誰の上にということなのか

この挨拶、相手が一人であろうが、複数人であろうがにかかわらず、気にすることなく「あなたがたの上に」ということができる。もちろん、一人の場合には、それが男性であれば、アライクムではなく「アライカ」、女性であれば「アライキ」ということもできるが、どのような場合であれ「アッサラーム・アライクム」ということが圧倒的に多い。

誰もいない部屋に入るときにも、「アッサラーム・アライクム」と言う。誰に挨拶しているのか?と突っ込みたくなる場面ではある。アラブ人の友人に聞けば、「天使」に挨拶していると教えてくれる。なるほど、誰もいなくても、そこには天使であふれているかもしれない。日本語で言えば「お邪魔します」。あるいはまた、入退室のときの「失礼します」のタイミングでも、人がいる、いないかかわらずに使える「アッサラーム・アライクム」である。

挨拶されているのは誰なのか

誰かに、アッサラーム・アライクムと声をかけられたとする。私一人だったら、誰の上の平安なのかと言えば、私の上ということになる。もしも、私が誰かと一緒ならば、私たちの上ということだ。実施の場面では、アライクムをそんな風に読み替えつつ反射的に理解するのだろうけれど、文法的にみれば、「アライクム」の「クム」は、「私たち」ということになる。

この挨拶は、「私たち」に向けられているということなのだ。では、私たちとは誰なのか。一つは、上の例にもあるように、実際の会話で平安あれと言ってもらっている会話の相手方である。そしてもう一つは、天使たち。そして、アラビア語の世界には、さらにもう一つの「私たち」が存在する。

もう一つの「私たち」は別次元

それは、日本語の世界では考えにくい「私たち」である。実は、聖典クルアーンにおいて、アッラーはしばしば、自らのことを、1人称複数形で語っているのだ。

《実にわれわれは人間を最も素晴らしい直立の形で創造した》

《われわれは、彼に二つの眼と舌と上下の唇を与えなかったか》

など、枚挙にいとまはない。

つまり、「アライクム」と言ったときには、アッラーもまた「クム」の中に含まれうるということなのだ。

しかも、アッラーは、「一なるもの」でもある。3人称では、単数形で表されることはあっても、複数の代名詞で語られることはない。いやまさに、《彼は1なるもの》なのである。

その一なるものは、不定名詞で降されており、はじめもなければ終わりもない、それに勝るものは何もないような、すべてを包み込む「1」である。つまり、そのわれわれは、「絶対的なわれわれ」とでも呼びうるものである。

日本語の「私たち」

アッラーでさえ「私たち」を標榜するアラビア語に対し、日本語の「私たち」の正体は全くもってはっきりしない。「私たち」という言葉が、しばしば「みんな」という言葉に置き換えられるからだ。

「みんなが言っている」とか、「みんなが知っている」とか、「みんながやっている」など、「みんなが〇〇しているから、あなたも○○しましょう」という誘い文句が巷にはあふれかえってはいないか。みんなから外れ、みんなに乗り遅れるのが大嫌いな日本人には、実に有効な殺し文句だ。政治も、エンタメも、消費も、SDGsもまた、しばしば、このみんなを使って様々な操作が行われているようでさえある。SNSは、まさにこの「みんな」の増幅装置だ。

「みんな」をたとえば英語に直してみると、everyone なのだが、これを「われわれ」の意味で用いて、3人称的客観性を「われわれ」の中に取り込む。「みんな」を用いることによって私自身はどうなのかをぼやかすことさえ可能だ。いつも半身で、いつでも抜けられるようにしている。みんなと言いながら自分自身はどこか他人事でコミットメントはしないかのようなレトリックだ。

そんなわれわれは、とても絶対的なというようなレベルにまでは到達しない。「小さなわれわれ」の世界である。

「アルハムドゥリッラー」

「アッサラーム・アライクム」に続く会話は、アラビア語会話の入門のレベルであれば、「ご機嫌いかがですか」「元気です。アルハムドゥリッラー」が典型的だ。「ご機嫌いかがですか」をアラビア語では、男性には「カイファ・ハールカ」、女性には「カイファ・ハールキ」と言う。他の言い方もあるが、しかし、ここでも、「ハールカ」(あなた(男性)の状態)、「ハールキ」(あなた(女性)の状態)。カイファが疑問詞で「いかに」を意味し、アラビア語ではこうした場合Be動詞的な動詞は用いないので、これで「あなたの状態はいかがですか」つまり、ご機嫌いかがですかが出来上がる。ここでも「誰の」状態なのかが明示されているのだ。日本語が、そのあたりにほとんど言及しないのとは対照的だ。

「アルハムドゥリッラー」と「お陰様で」にも二つの言語の違いが明確に表れる。アルハムドゥリッラーを直訳すると「すべての称賛はアッラーにある」となる。ここでは、称賛そのものと言うのは、アッラーのものだ、つまり、いろいろとほめたたえるべきことはあるけれども、それもこれも含めて、すべての称賛は、アッラーに向けられるべきだという感じである。称賛という言葉も、アッラーという言葉も、それこそものすごい存在感で有無をも言わせない。

際立つ対照性

「お陰様で」は称賛や感謝を、お陰様という陰の存在のおかげでという言葉で表す。「陰で」では、感謝の言葉にはならない。「お」をつけて、「様」をつけて、はじめて様になる。そこには、私もいなければあなたも、あなたがたもいないし、神もいない。どこまでも曖昧なこの言葉で、しかし、感謝を伝えることができるのだ。冠詞を持たない日本語であるからなおさらぼんやりしている。お陰様で。それでも、感謝が伝わるというのだから、日本語話者たちは、語られない部分がどれだけ共有しているのかを思わざるを得ない。

ぼんやりしているから、人によってとらえ方はまちまち。自由度が高いという言い方もできるが、何が伝えたいのか、何が伝わったのかも定かではないという状況も生じうる。そこで注目すべきはアラビア語の明確さ、明瞭さだ。「われわれ」についても、アラビア語では、「絶対的なわれわれ」も見据えつつの「われわれ」であるけれど、日本語では、「絶対的なわれわれ」とは無縁の「われわれ」がときに排他的な「大きなわれわれ」にさえなってしまう。

明確に言葉を重ねて伝えるアラビア語と、最小限の言葉とその余韻で伝える日本語。日本語は、自分を隠し、少し引いたところで、意図やその場の雰囲気といったものを読む言語とも言いうる。

ヘブライ語の「シャローム」

さてグーグル翻訳で「アッサラーム・アライクム」を訳してみる。「シャローム」と出てくる。単語自体は、アラビア語の「サラーム」である。ただし、「シャローム」というこの翻訳は、「アッサラーム・アライクム」を「こんにちは」や、“Hello”や「ニーハオ」と訳されるのと同じタイプの翻訳である。つまり、ここには、「絶対的なわれわれ」に対する、「アライクム」の部分を欠いた「シャローム」なのだ。万有の主、すべての被造物の創造主への言及は行われていないことになる。

しかしもし、この挨拶が、同時に至高なる御方、アッラーにも向けられているものと知っているなら、アッサラーム・アライクムと言いながら、戦争はできないはずだ。決してこの挨拶はイスラーム教徒やアラブ人だけの挨拶ではない。たしかに「あなたがたの上に平安あれ」とは、日本語の世界では、なんとも奇異な挨拶だ。しかし、創造主を前に人間同士は争わない、戦わないという挨拶になりるとするならば、少なくともその意味を、日本語話者も含め、全世界の人々が知ってほしいと思わざるを得ない。言葉自体は、地域的な――それでも20億の人々には通じる――挨拶かもしれないが、その意味は、まさに、グローバル。そして、現在、世界がもっとも必要としている必須の挨拶だと言えるのだ。


平和の実現に向けて

グーグル翻訳が、この挨拶が創造主にも向けられていることを知らないのと同様に、アッサラーム・アライクムの挨拶が、単なる挨拶として捉えられるだけの世界では、絶対的なわれわれは、それこそ忘却の彼方に置かれてしまう。

となれば、「小さなわれわれ」が、「大きなわれわれ」の顔をして、争い合い、奪い合い、殺し合い、ついには、戦争へ突入していく。良好な関係が一向に築けないことと、アッサラーム・アライクムの本来の意味が隠蔽され、単なる挨拶表現に堕ちてしまったことと実は表裏の関係にあるのだ。

「読め」と命じられた時に聖典クルアーンを読む人々がいる。また「読め」と言われると、自分自身を陰の中において、空気を読もうとする人々もいる。アッラーからの啓示、あるいは創造主の創造のしるしも読めるし、人間たちの空気も読める。

そしてそれらの読みを通じて、「絶対的なわれわれ」に少しでも近づこうとする努力する。そして、おそらくその努力の継続が、争いを未然に防ぐサラームの世界へ、世界を導いてくれると信じたい。

パレスチナをめぐる戦争の即時停戦を。これ以上の犠牲者はもういらない。そして、パレスチナのみならず、ウクライナにおいても、そのほかの戦争においてもまた、停戦とサラームが取り戻されることを祈る。

まずは「アッサラーム・アライクム」の挨拶をかわしあおう。そして、「ワアライクムッサラーム」と返そう。

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