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逃走!闘争!

 テレビをつけて、消しました。またテレビをつけて、今度は、2分ほど見て、消しました。真っ暗な画面だけが残りました。
 今度はスマホを開けました。ラインにメッセージが来てないか、確認しました。ないと分かると、次に、Twitterを開けました。有象無象の文字たちが私の両眼に滑り込み、あることないこと囁きました。私は眼を細めて文字たちを追いましたが、心はどこか上の空、色んなことを考えました。友人のこと。ご飯のこと。バイトのこと。膨らんだ意識は分散し、枝分かれし、霧散しました。消え行きました。文字たちは騒がしそうに叫んでいますが、私には届きませんでした。金切り声が反響しますが、うるさいとも思いませんでした。
 心ここにあらず。まさしくそれでした。その境地を幾分味わった後、急に私は怖くなりました。現状への不満、自己への嫌悪、無意味な衝動が爆発しそうで、その爆発が怖いあまりに、貧乏ゆすりを続け、歯軋りをしました。破裂しそうな胸を抱え、自分を押さえ込むのに必死でした。

 私は時々、自分が何をしているのか分からなくなります。何かを始めてから、ふと手を止めて、我に帰ってみると、どうしようもない不安と疑念が、数秒後に押し寄せます。なぜこれをしているのか?なぜこれをしなくてはならないのか?冷えた眼差しが自分を見つめて、私はなんだか怖くなります。腹の底が冷えたような気になって、私の注意は飛び散ります。それは小さな粒になって、思考は迷える羊みたいに、あっちに行ったりこっちに行ったり、慌ただしく動き回ります。もっとするべきことがあるんじゃないか?もっと、有意義なことがあるんじゃないのか?
 そう思い始めたら最後、私は何も集中出来なくなります。テレビなどの娯楽はもちろん、読書も、筋トレも。心がミキサーで掻き乱されるような感覚で、私のあらゆる感情が小さいマシンに閉じ込められ、跡形もなく切断され、混ざり込み、ブオーン、というけたたましい音と共に、ぐちゃぐちゃになります。真っ暗な空間、上下左右の感覚が消えて、自分がどこを目指しているのかも分からなくなって、頭がパンクして、思考が停止して、ただ呆然と立ち尽くすのです。何かしなければと思いながら、何も出来ない身体が一つ。そんな無力な自分を呪い、胸が締め付けられる思いがするのです。

 焦燥。私の心を捕らえるのは、いつもこいつです。私はいつも、何かに怯え、何かに迫られ、何かに衝き動かされるのです。このままでは、良くないことが起こる。そう感じると、頭の中にサイレンの音が鳴り響きます。だから、今していることを中断しなくてはならず、それとは別に、他の何かを始めなくてはなりません。
 でも、困ったことに、そのサイレンが何を警告しているのか分からず、それを鳴らしているほうも、なぜ鳴らしているのか分かっていません。「何かやばそう」だから、鳴らすのです。だけど、その危ぶむべき対象が、具体的に何か分からなくても、頭はその音に反応します。何かをしなくてはならないと思いますが、何をすれば良いのか分からない。無意味な焦燥だけが募ります。がむしゃらに動き回って、疲れて、それでも飽きたらず、これでもない、あれでもない、と色々と手を出して、後に残るは虚無しかないのに、それを知っているのに、私はやめられません。

 そういう時、私はよく人に会います。それか、電話をします。人の声を聞き、自分が話し、コミュニケーションを取ります。そうすれば、今まで沈殿していた不安や衝動が和らいでいき、ゆっくりと、視界から消えていくような気がします。クリアになります。目の前に人に集中すれば、そんなこと、考えなくて済むのです。
 ただ、いつも人と話せる訳ではありません。皆さん、そんなに暇ではないからです。そんな時、私は代わりに散歩をします。右に行ったり左に行ったり。私は自分の脚が赴くままに、自由に街を闊歩します。誰だか知らない人の家の前を通り、その網戸の隙間から声が聞こえ、換気扇からおでんの匂いなんか漂ってきたら、私はえも言えぬ安心感に満たされます。人。家族。生活。それが感じ取れるだけで、私は一時、心の不安を無視できるのです。不思議なことです。

 人は何かしら、心に不安を抱えるものだと思っています。私は自分を哀れだとは思いません。私の場合はこのタイプの不安が胸に棲みついているだけの話で、千差万別、程度は違えど、各人の心に潜んでいるものと思われます。だから、皆さんもお分かりでしょうが、それは簡単には消えません。むしろ、ヘドロのように、死ぬまで胸の隅にへばりつくものであり、一生添い遂げなければならぬ、陰湿なパートナーとも呼ぶべき存在です。しかし、やはりと言うべきか、放っておけば、気づかぬうちにそいつに呑まれて、我を忘れて錯乱し、自分が何をしているのか、何者であるのかも分からなくなるかもしれません。狂ってしまうかもしれません。皆、一見何も変わらぬように、平気そうな顔を浮かべてはいますが、内なる革命が、日々勃発しているのかもしれません。汗水垂らして、闘っているのかもしれません。

 だから、気をつけなくてはならぬのです。注意して、観察しなくてはならぬのです。面倒くさいことは嫌だ、早く根絶させたい、と願うかもしれませんが、そいつはとても難しい。勿論、そいつに立ち向かうことは必要ですし、それは現状を打開する、解決の糸口となるやもしれません。しかし、そいつが完全に、消えることはありません。その無意識はある種のガンのようなもので、消しても消しても、撲滅されることはありません。転移して転移して、またひょっこりと、知らぬ内に現れます。そう、戦争は終わらないのです。
 ならば、飼いならせばよいのです。時に立ち向かい、時に逃げればよいのです。私は立ち向かうことに疲れたので、主に逃走をしています。重要なのは中庸です。バランスです。時に立ち向かい、時に逃げるのです。立ち向かってばかりではメンタルが壊れますし、逃げてばかりではコントロールが出来ません。間です。その中間こそが、私たちの目指すべき方向であり、境地であり、平穏な日々を謳歌するための、唯一の突破口なのです。逃走 or 闘争なのです。
 私は人と話し、街を歩き、生ぬるい風を浴びながら、不安と焦燥から眼を背けます。逃走します。少し距離をおき、冷静に見つめられるようになったら、ゆっくり腰を上げるのです。ペンを持ったり、瞑想をしたり。そして、恐る恐る、ヒットアンドアウェイ。ちょっとだけ、反撃するのも忘れません。

 

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