【閑話休題】ドラマ「逃げ恥」でモヤリティ~子育てしながら働くのは「あたりまえ」かもしれないが~
※一度書いたものを、ドラマ再見して書き直しています。
私は「逃げるは恥だが役に立つ」が大好きだ。原作漫画もドラマも素晴らしいと思った。その内容に共感するあまり、以前WEBメディアにコラムを寄稿まで書いてしまったほどである。(どんなものかご興味ある方は末尾参照してみてください)
ただ、お正月にテレビ放映された続編ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!(以下「逃げ恥SP)」は、素直にすべて共感したとはいえなかった。
妊娠順番待ち問題から男女別姓、ルッキズム、セクハラに一人暮らし世帯…。現代日本をとりまく課題をこれでもか、というほど盛り込みつつ、ドラマとして成立させたのはさすが。うんうん…と頷きながら見ていたのだけれど…
新垣結衣さんが演じる主人公みくりが、 自分も育休を取ろうとする夫、平匡さんに「さも当然の顔をすれば良いのです!!」と言ったシーンに引っ掛かった。
「あれ?当然の顔って…周囲の人に何も言わないの?」
実際にはドラマの中で、みくり自身は同僚にお礼は言っている。
夫の平匡さんが「当然の顔」をするのは、「男性が長い育休をとる」ことに難色を示す上司への対抗策としてだ。その気持ちもわからなくもない。
ただ、みくりの業務を実際にカバーする同僚は、育休への理解がないように描かれていた。同僚の育休に、その仕事のカバーについて心配することや、モヤッとする気持ちを抱くことが、まるで「悪いこと」のように描かれているように見えたのは私の気のせいだろうか?
いやみのように育休当事者にいうのはどうかと思うけれど、でも仕事の心配をするのは自然なことだろう。そんな気持ちを悪いことと描くのは、むしろ育休とる側とそれをカバーする側との二項対立を煽っているようにも見えた。
そんなひっかかりを、自分なりに分析して、どうしたらよいかを考えてみた。
ポイントは二つ。
①「組織」と「個人」は別と考えて行動する
②「ありがとう」推し。「ごめんなさい」は不要
①「組織」と「個人」は別と考えて行動する
今日、すでに法律で定められている育休を誰もが取得できるようにすることは企業として当然だ。それは組織としての責務であり、その実現のために企業努力するのは「当然」だ。
ドラマでも、平匡が担当するシステム開発プロジェクトを外部から支援する沼田さんが、平匡の育休をいやがる課長(プロジェクトリーダー)に対してこう述べて、多くの人からネットでトレンド入りするほど共感を呼んだ。
「誰が休んでも仕事が回る。帰ってこられる環境を普段から作っておくこと。それが職場におけるリスク管理」「リスク管理ができるから灰原さんがプロジェクトリーダーをしているのだ」
経営側の今日の役割をはっきり述べている。うん、納得する。素敵。特に「誰が休んでも」というところが。そこでは育休に限定していない。誰もが休むリスクがあり、経営はそれに備える必要があるというのは自明だ。
ただ、それが組織の構成員個人のレベルになると話は変わる。
会社経営の「当然」は、必ずしも容易に実現できるものではない。それを実現するには、社員一人ひとりが努力をする必要がある。その努力は時として「並々ならぬ」レベルが求められる。特に新しい施策は、これまで行ってきたことや積み重ねられた常識は慣性の法則があり、なかなか方向転換は難しい。経営も、実施する個々人も、強いエネルギーをもって続けていく必要がある。
そのエネルギーを支えるのは極めて感情的なアプローチが必要となる。つまり、その努力を誰かが承認し、励ますこと。逆に、もし、その努力について「やって当然」として認められなかったら、続けるエネルギーは枯渇してしまう。
「さも当然の顔をする」と言う事は、つまり「当然を実現するための一人一人の努力を無視する」と聞こえてしまう。そうなると、周りの人間はあたりまえを維持するためのモチベーションが損なわれてしまう。長い目で見ると、あたりまえが維持できなくなるリスクが高まる。
加えて当事者(ここでは休みを取る人)が直接、相手に感謝を伝えることは人間関係を円滑化するのに効果的だ。
感謝を伝えることは、伝えた当人と受けた側、双方の幸福感を向上させるという研究結果もある。この研究では、当事者は感謝を伝える効果を軽視する傾向があることも指摘している(参考:2018年アメリカ・テキサス州立大学オースティン校のアミット・クマール氏とシカゴ大学のニコラス・エプリー氏の研究http://karapaia.com/archives/52262720.html)
「ありがとう」推し。「ごめんなさい」は不要
育休や時短を取る上で「当然の顔をしていればよい」と言い切りたい気持ちもわからないでもない。平匡さんが、当然の顔をしようとするのは、前述のように自分の権利を侵害しようとする相手に対する対抗策としてだ。その背景には、どこか「後ろめたさ」があるのではないか。
そのうしろめたさは、育休をとる気持ちを萎えさせてしまう。だから「当然の顔をすればよい」と強い態度をとることによって自分自身を支えようとする。
そうでもしないと自分が周囲に迷惑をかける存在に思えてしまう。そんな状態で、もし相手に「ありがとう」と言ってしまったら、自分にまるで非があることを認めてしまうように感じているのではないか。でも、よく考えてほしい。「ありがとう」は、自分の非を認める言葉ではない。
「ごめんなさい」は別だ。それは非を認める言葉だ。私は「ごめんなさい」という必要はないと考えている。でも「ありがとう」は、相手の努力を認め感謝を伝えるに過ぎない。
加えて、「ありがとう」は前述の論文にも述べられているように、それを発した側の幸福感も高める。だから、自分のためにもどんどん言ったほうが良い。
数年前の「逃げ恥」のドラマでは、独身キャリアウーマンの「ゆりちゃん」が、子供のいる女性に対して「私の代わりに子供を産んでくれてありがとうって感謝している」という意味合いの言葉を述べていた。そんな柔軟な発想ができるゆりちゃんは素敵だし、とても幸せに見えた。
<参考記事>
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