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小舟に空が落ちたから

 小舟が浮かんでいる。
 行こうと思った。何処かへ行ってしまおうと思った。
 岸には葦と蒲が生え、小さな水草が点描のように留まっている。私はそこに立っていた。季節はいつなのか忘れてしまったけれど、こんなに風がびゅおうと吹くのだから多分冬で、私は置き去りなのだった。
 酷く喉が渇いた。声はもう出なかった。
 黒い鳥が群れをなして吼えながら私の遥か上を過ぎて行った。その声が聴こえなくなると、もう総ては無音なのだった。
 私はどうやって此処に来たのかもう思い出せない。
 例えば、雨の日に盗みをして逃げてきたのかもしれない。
 例えば、恋人と旅に出て別れたのかもしれない。
 例えば、最初から此処に独りだったのかもしれない。
 気づけば私は裸足だった。踏みしめる水際の濡れた土が気持ちが悪くて、指を縮めた。
 不意に、空が落ちた。
 さっきまで暗い紫色をしていた空がざだだと闇黒に閉ざされて、それは落ちたというほかない事だった。
 もう、行く時間だ。
 たれか。
 小舟を引き寄せる。それは思いのほか重く、私の手は感覚を失った。白く塗られていたであろう木の小舟はもう褪せて、所々に傷がある。
 櫂は、なかった。
 何処にも行けないんたね。
 汚れた足をひとつ乗せ、ふたつめも、そして軀も小舟の上に移した。ゆんらりと揺らぐ。
 私はやはり立っていた。もう疲れ切っているけれど、何故だかそうすべきなのだった。体が震える。
 手を広げる。
 私は十字架のやうだ。
 祈りの行為。
 小舟の縁に小さな蟲が一匹居た。私は慰みにそれに小声でなんと言うもない言葉をかけた。
 水がうねり、小舟は揺蕩う。
 私は磔のまま征く。
 空は落ちた儘世界を生殺しにして鳥はもう飛ばず終わり終わりなのだから何処までも音楽鳴らない己の果てを征け!

おたすけくださひな。