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骨壺 2

8歳の夏は、ほぼ丸一月、祖母の家で過ごした。

母がわたしの弟を7月の初旬に出産したため、わたしは実家に預けられたのだった。暑い盛りだった。夏休みの宿題をしたり、地元のラジオ体操に行って、そこで近所の子と仲良くなったりした。わたしの街とは車で小1時間しか離れていないのに、そのお友達は、単語だけでなく、間やスピード感までも違う言葉を話していた。それまで、その地方の方言は、祖父母、叔父叔母、里帰り中の母、祖父の会社の従業員や出入りの業者など、大人と年寄りからしか聞いたことがなかった。なので、そんな「大人たちの言葉」を操る、自分と同い年の子供たちは、わたしには、肝の据わった豪の者に見えたりもした。地元の子の姿を見ない日は、近所の祖父の事務所を訪れ、茶菓子を盗み食いしたり、母が眉根を寄せそうな派手な色のお菓子を叔父に買ってもらったり、奥で本を読んだり、ホテルなどに卸すステンレス製の洋食器の個別包装を手伝ったりした。そんな風にして、のんびり忙しく、一夏はあっという間に過ぎた。

母は、職人と商人の街で育った。金属を加工して、包丁やノコギリ、剪定バサミ、煙管といった道具を作る職人と、それを行商する商人だ。曽祖父が卸売をはじめ、祖父の代で金属加工品を販売する会社を興した。

短気で気っ風のいい市井の人の様子や、待ったなしで工業化・産業化されゆく時代の流れの中で精一杯家族の食扶持を稼いで生活してきた人々の様子が、時々、母から聞く幼い頃の思い出話から窺い知れた。

例えば、曽祖父が商売仲間と花札に興じているところに、賭博の一斉取り締まりが入り、何人かが「しょっぴかれた」ものの、最後まで曽祖父は見つからず、数時間後、人が退いた頃にひょっこり奥から出てきた本人に、「おめ、どこにいたんだ?」と周りの者が問い詰めると、古い便器の縁に指だけでぶら下がり、じっと息を潜めていたと明かした、など。

祖父が見聞きしたそんな風景は母、叔父、叔母の三兄弟に語り継がれ、そして、昭和50年代になって、私にまで伝わってきたのだった。

母から聞いていたそんな逸話の数々が、たとえ多少脚色されていたかもしれないものの、それは決して大げさではなかったのを、わたしは知っている。

高校の時、小遣い欲しさに、学校の休みの期間中、当時すでに叔父の代になっていたその会社の雑用を、何度か手伝ったことがある。小学生の頃より、少しだけ責任が重くなり、私が任されたのは、顧客に配る資料のコピー、出荷票の貼付、各種伝票のファックスなどだった。ある午後、運送会社の青年が、集荷に訪れた。彼は、事務所に入るなり、「今日の荷物、こいらかね?」と入り口から奥の叔父に大声で確認した。すると叔父は、間髪入れずに「タダんねぇよ!」と、怒鳴り返し、青年は「なーに、そんげ高価なもん、へぇってるろかね〜」とからかい半分に、荷を積み始めた。それが終わると、事務所に入ってきて叔母に挨拶すると、わたしを一瞥し、「これ、だっら?」と一言。叔母が自分の姪であることを告げたのだろう、その青年は「ほー、しっかりした感じのお嬢さんらねー」と言い残して、「毎度!」と去っていった。

そんな、軽妙なやりとりに流れる、キメの粗い暖かい空気は、母の昔話の登場人物がまとうそれと同じだった。啖呵と軽口の応酬で間合いをはかりながら信頼を固めていくような、そんな無骨な大人たちが、たくさんいた。それが、公務員とサラリーマンの街で育ったわたしには、とてもエキゾチックでスリリングだった。

3/3へ続く


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