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母校のアトリエで裸婦モデルになる 

 真澄は高校卒業後、浪人して一年間予備校に通い、美大の彫刻科に合格した。希望していた学科に入れてほっとし、一緒に入学したまわりの人たちの個性に触れ、新たな環境に慣れるまでは新鮮な驚きの連続で、充実した日々をおくっていた。大学生になって初めての夏が近づいていた。
 
 ある日、真澄は一通の手紙を受け取った。封筒には見覚えのある学校のロゴが印刷されていた。母校である女子高校の美術教師、藤井先生からの手紙だった。
 先生には春に電話で大学合格の報告をして、とても喜んでもらっていた。美大受験について親身になって相談に乗ってくれたのも藤井先生で、いま真澄が美大で勉強ができているのも藤井先生のおかげだと思っている。
 手紙はなんだろうと、封を丁寧に切って開くと、そこには「美術部で人体デッサンをするので、そのモデルをしてほしい」という依頼が書かれていた。手紙を読み進めるうちに、高校時代の思い出、初めてモデルを描いたときのことが蘇った。藤井先生の特徴のある文字と、レターヘッドの懐かしい校章が、真澄の心を高校時代に引き戻した。

 真澄は、高校時代に初めて人体デッサンをした日のことを今でも鮮明に覚えている。美術部の卒業生がモデルとして登場したときのことだった。
 彼女は、長い黒髪が美しく、大理石彫刻のような美しい肌を持っていた。彼女がモデル台にあがり、ポーズを取ると、美術室の空気が一変したように感じた。真澄の胸は高鳴り、興奮と緊張で手が震えた。モデルの美しさに圧倒されながらも、それを逃すまいと必死に観察した。
 モデルの繊細で滑らかな曲線、柔らかい陰影、生きた人体の量感、真澄はそのすべてを捉えようとした。その時美術室には、鉛筆が紙の上を走る音だけがあった。集中すればするほど、時間の流れが止まったような感覚があった。

 あの日の感動は、真澄にとって絵を描くことの意味を再認識させる出来事だった。真澄はモデルの美しさだけでなく、彼女の生きる時間、その瞬間を共有することの喜びも感じていた。その時の情熱と興奮が、今の彼女の基礎を作っていると真澄は感じている。いま、大学で行なっているデッサンの演習、裸婦の彫塑の原点となる体験が、高校時代の美術部にあった。

 藤井先生の依頼を受けた真澄は、自分にモデルがつとまるだろうかと考えた。無意識のうちに、あの日のモデルと自分を比べていた。あの日、圧倒された美しい裸身といまの自分のそれを比較した。なんとも言えなかった。
 真澄は、高校時代に使っていたスケッチブックを探した。それはすぐに見つかった。開くと、あの日初めて描いた人体デッサンが現れた。
 そのページには、若々しい情熱と未熟さが混在した絵が描かれていた。モデルの美しさを捉えようと必死だった自分の姿が、そこに刻まれていた。あの日に感じた感動と自分の情熱と未熟さに焦った気持ち、モデルをつとめた卒業生への感謝と畏怖の感情、それらの気持ちが甘酸っぱく甦った。

 私も誰かの心に残る存在になれたらと、真澄は静かに決意を固めた。藤井先生への返事を書くために、便箋を取り出した。ペンで手紙を書くのは久しぶりだ。
 後輩たちにもかつての自分と同じ感動を体験してほしいという思いが、彼女の心を動かした。真澄は簡潔な文章で承諾の返事を書き、封筒に入れ、切手を貼って投函した。それらは自分がモデルになるための一連の儀式のようでもあった。

 手紙のやり取りのあとは、電話で打ち合わせをして、デッサンの日程を決めた。藤井先生は真澄の大学のスケジュールを考慮して予定を組んでくれた。
 デッサンの日、真澄は久しぶりに母校の校舎に入った。生徒時代とは異なる来客用の受付で藤井先生との約束で来たことを告げ、名前を書いてゲスト用のネームプレートを受け取った。それを首から下げた。
 校内の景色はほとんど変わっていないように見えた。廊下の窓から差し込む柔らかな光も懐かしかった。
 美術準備室の前で立ち止まり、真澄は深呼吸をした。そして、ドアをノックした。
「どうぞ」
 藤井先生の声がした。
 中に入ると、藤井先生が以前と変わらない笑顔で迎えてくれた。
「田中さん、お待ちしてたわ」
「先生、お手紙ありがとうございました。ちょっと悩んだけど、来ました」
「引き受けてくれると思ってた。ちょっと会わないうちに大人っぽくなって。素敵よ」
「ありがとうございます」
「今日はありがとうね。あなたにお願いすることにしたのは、あの頃のあなたの、情熱と真剣さを今の部員たちにも感じてもらいたかったからなの」
「私の他にもふさわしい人がいると思いましたけど」
「もちろん。美術部の卒業生は逸材揃いだから」
 藤井先生の笑顔は無敵だ。具体的になにか思い出すわけではないが、懐かしさでいっぱいになる。
「私でいいのかな、って、ちょっと思いました」
「もちろん。素敵なモデルさんになれると思う」
「ありがとうございます」
「あなたが初めてここで人体デッサンをした日のこと、今でもよく覚えているの。あの時のあなたの目の輝きと集中力は、私にとっても印象深かったの」
「ありがとうございます、先生。あの日のことは私にとっても特別な思い出です。モデルの方の美しさに感動して、でもそれがうまく表現できないもどかしさもあって、とにかく一心不乱に描いたことを思い出します」
 藤井先生はうなずきながら続けた。
「だからこそ、今の生徒たちにも同じような経験をしてほしいと思ったの。あなたがモデルになれば、きっと彼女たちも素敵な刺激を受けると思う。卒業生を呼んでモデルになってもらうのは、そういう狙いもあって、そして、今までうまくいってる」
「そんな風に言っていただけると嬉しいです。私も楽しみです。部員たちの真剣な眼差しの中に立てば、自分でも何か得るものがあるかもしれないとも思って、決めたんです。お手紙を頂くまでは、自分が裸婦モデルになるなんて考えたことなかったけど」
 藤井先生は満足そうに頷いた。

 準備室の隅にある更衣スペースで着替え、真澄は先生とともに美術室に入った。準備室とは扉で繋がっている。あの日のモデルはどんな気持ちでこの扉を通ってきたのだろうかと、ふと真澄は思った。
 美術部員たちはすでに準備を終えていた。モデル台を囲むようにイーゼルが並び、静かに真澄を迎えた。藤井先生が皆に真澄を紹介した。この美術部の卒業生で今は美大の彫刻科で学んでいること、かつて美術部員だった時、皆と同じようにここで初めて人体を描いたことなど。
「特別な機会なので、モデルに感謝し真剣に取り組むように」
 と藤井先生は続けた。その言葉に、真澄は高校時代の自分を思い出し、真剣な表情で自分で見ている生徒たちにかつての自分を見ていた。しっかりやり遂げなければと思った。柔らかな布がかけられたモデル台を見た。かつて描く側で見ていた同じ台だった。あそこに上がり、裸になるのだ。

 真澄はモデル台に上がり、羽織っていたものを脱いでポーズを始めた。生徒たちの目が輝き、一瞬で教室の空気が変わるのを感じた。彼女は自分がその中心にいることを自覚し、心が引き締まった。女子校の中だということもあり、裸であることにあまり抵抗がなかったのが不思議な感じだった。もっと戸惑ったり恥ずかしさを感じるかと思っていたが杞憂だった。すべてをしっかり見て、描いて欲しいと思った。

 生徒たちは集中して彼女を見つめ、その目には強い意欲が感じられた。懸命に鉛筆を走らせる音が教室に響く。真澄はその音に、高校時代の自分の姿を重ねた。彼女もかつて、同じようにモデルを見つめ、紙に向かっていたのだ。
 ポーズを続ける中で、真澄は自分が彼女たちの成長を見守っているような不思議な気分になった。彼女たちの集中力と熱意が、彼女自身の情熱を再燃させるようだった。真澄は心の中で、「頑張って」と静かにエールを送った。

 デッサンが終わり、生徒たちの作品を見た真澄は、その中に自分が初めて描いたデッサンの記憶を重ねた。生徒たちの真剣な努力の跡が、それぞれの作品に表れていた。真澄は藤井先生と一緒に生徒たちの作品に意見を述べた。
 和やかな講評会が終わり、生徒たちや藤井先生からの感謝の言葉を受け、真澄は母校を後にした。錯覚かもしれないが、次の世代に何かを伝えられたという充実感があった。今日自分を描いてくれた生徒たちの中から、卒業後にモデルとしてここに戻ってきてくれる子が現れるかもしれない。その時は今度は自分も描く側で参加してみたいとも思い、真澄は笑顔になった。


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