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一番好きなのは、一番最近行った山

深田久弥「日本百名山」

 百名山。山登りに縁がなくても聞いたことぐらいはあるはず。文筆家で登山家の深田久弥(1903〜71年)が著したエッセー集『日本百名山』に登場する山々を指す。深田は自らの登山体験に基づき、品格、歴史、個性を基準として、全国の山から百座を選出。道北の利尻岳から屋久島の宮ノ浦岳まで、それぞれの登山体験を綴っている。

 濃緑の樹林と、鮮やかな緑の笹原と、茶褐色の泥流の押出しと−−そういう色が混りあって美しいモザイクをなしている。(焼岳)

 眺望を称え、故事をひもとき、山の魅力を語るキレの良い文章。読めば山に行きたくなる。1964年に刊行されると百名山ブームを巻き起こした。半世紀後のいまも、百名山制覇を目指す登山者は少なくない。当時の深田は選定に自信を抱きつつも、〈異論もあろう〉〈私の主観で選択したものだから、これが妥当だと言えないだろう〉などと記していた。多くの人の意見を聞きたい、山を差しかえるつもり、とも。だが結局はそのまま定着。後に他の人々によって「三百名山」「二百名山」も選定されるが、ベースになったのは深田百名山。もはや不朽の存在だ。
 本書を紹介するには山に限ると思ったが、迷った末に、百名山ではない場所にした。山梨県の茅ヶ岳(1704m)。深田が最後に登った山だ。71年3月、日本山岳会員と一緒に入山した彼は頂上近くで脳溢血を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となった。登山口に整備された「深田記念公園」の石碑に、直筆の言葉が刻まれている。〈百の頂に百の喜びあり〉。この「百の頂」は百名山のことではなく、どんな山にも…というニュアンスだろう。
 深田は静かな山行を好んだ。「日本百名山」でも、ある山について〈数百人の人が列をなして登り、パトロールが徘徊していると聞いただけで、気が挫けてしまう〉とぼやいていたりする。自ら選んだ百名山ばかりに注目が集まるのは想定外だったかもしれない。
 深まる秋の気配を楽しみつつ、人影のない記念公園のベンチに座ってページを繰っていたら、こんな記述を見つけた。

 よく私は人から、どの山が一番好きかと訊かれる。私の答はいつもきまっている。一番最近に行ってきた山である。

 ここを選んで良かったのかもしれない、と思えた。   2020/11/2 夕刊フジ

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