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五島美術館『茶道具取り合わせ展』を観て、色々想いを馳せる。

2022/02/12、上野毛にある五島美術館へ出かけた。題目は『茶道具取り合わせ展』。日本、中国、朝鮮を主とした素晴らしき美術品が勢揃い。

おおらかな高麗の井戸茶碗にも惹かれた。中国南宋時代の筍形砧青磁花入も深みのある釉が美しかった。朝鮮、中国、それぞれの国の違いが陶磁器に表れているのが興味深い。きっとそれがその国の風土に根ざした文化というものなのだろう。

私が日本の美術品に強く魅了されるのも、即ち母国が日本だからという原理から来るのだろうか。
中国や朝鮮も良いが、やっぱり日本美術はいいなぁ、と思う。名品揃いの展覧会だったが、自然と心に残ったのは長次郎の赤楽茶碗『夕暮』『湖月』、そして光悦の赤楽茶碗『十王』。特に樂焼初代である長次郎の茶碗は侘びている、かせている。他国の、あまり日本美術に馴染みの少ない方が観たら唯の古びたやきものだろう。
けれど、なぜか心ひかれる。日本でもとても愛されているやきもので、その国民性も好きだ。

長次郎の茶碗は、千利休の創意を受けて生まれた。千利休が茶の湯を大成するときに必要とし、依頼してできたのが長次郎を始祖とする樂焼である。

利休や長次郎が樂焼を生み出した当時に想いを馳せる。計り知れないが、きっと深い芸術や創造への思いがあったのだと思う。それを過去の偉人が成し得たことと片すのではなく、自分なりに咀嚼しようとすることから人生に生かせる新しい何かが生まれるのではないか。なんか話のスケールが大きくなってきたぞ。

芸術という言葉は、いつからかとても好きな言葉である。とは言っても、奥が深い、謎多き言葉だ。この言葉は何も陶芸家、音楽家、画家、小説家など作家の専売特許ではないと思う。『じゃあお前は何を創造しているんだ?』と問われたら言葉に詰まる。けれど、一輪の花が心を癒やしたり、一碗の器が心を包んだり、一本のエッセイや歌に救われたりしたとき、『誰かに助けられて生きている』と実感する。医学や科学が必要不可欠なように、芸術とか表現もまたそんな存在であってほしい。以前noteに書いた、『心の医者』という言葉を思い出した。そう。芸術とは、心の医者であるべきなのかもしれない。


スケールは大きくなくていい。人のため(あるいは自分のため)に、自分の持てるもの、出来ることで何かをしたい、とそれをすることが表現であり、芸術だと思う。言葉の定義って、難しい。
今日は、こう思った。今日は、ここまでにしよう。頭がぷすぷすしてきたから。

表現。芸術。創造。これらの言葉が指し示すものを、これからも探究していきたい。しっかり定義したい。そこには、美しさが宿っている。そう感じる。





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