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論文に「本稿」「拙稿」は使っていいのか問題

「稿」とは未完成の文章という意味合いがあるので、論文に「本稿では〜」と書いたり、既発表の論文を「拙稿」と書くのは適切じゃないのではないか、という趣旨のツイートをして、ちょっとした議論を巻き起こしてしまいました。

まず、言葉の使い方というのは一義的に正しい/間違いと決められるものじゃなくて、状況や媒体、文脈、使い手の個性、など様々な要素で決まるものだと思っています。

言葉の使い方の「正しさ」にはさまざまな基準があって、何が正しいと客観的に決められるものではありませんが、そのいろんな基準を考慮して自分なりにこれはよい、よくないと判断して使っていくのが現実的だと思っており、そしてまた他人がどう使っていてもわざわざ口を挟む必要のないことであるとも思っています。飯間さんの下記のツイートに全面的に賛同します。

ですので「適切ではないと思う」には自分は使いませんくらいの意味合いしかないつもりだったんですけど、その辺をすっ飛ばしたために「本稿」が誤用であるような迂闊な書き方をしてしまって拡散されたのは本意ではないし、普段からこの語を使っている研究者の方々を驚かせてしまって申し訳なく思います。

そのため、ここでは論文における「本稿」「拙稿」についてさまざまな観点からの見解をまとめておきますが、それの是非を論じることは基本的にはしません。お読みになった上で、各自でご判断いただければと思います。わたしもこの記事を書くために調べたりご意見を頂いたりして、若干ではありますが、許容のほうに傾いてきています……。

「稿」と「本稿」のもともとの意味

まずは稿のもともとの意味を確認しておきます。ですがもともとの意味が絶対であるなんてことは決してありません。言葉は移り変わってゆくものですから、この辺は、参考程度にしてください。

漢和辞典

まずは漢和辞典で「稿」を調べてみると、以下のように出てきます。

①〈わら〉稲・麦などの茎。
②したがき。詩文の下書き。「草稿」

『新選漢和辞典』web版

昔は藁を下書きに用いていたことに由来するらしいです。

国語辞典

まず『日本国語大辞典』で「稿」を引くと、以下のように出てきます。用例は省略します。

(1)詩文などをつくる際の下書き。まとめつつある文章。草稿。原稿。
(2)稲、麦などの茎。わら。

『日本国語大辞典』

「本稿」は以下の通りです。

(1)もとになる原稿。
(2)話題にしている、この原稿。

『日本国語大辞典』

なお、国語辞典は一般に使われている意味を説明するものであって、なにかを定義したり、それをもって正しい・間違いを判断しうるものではないことは申し添えておきます。国語辞典編纂者の飯間浩明さんもよくおっしゃっています。

出版における「稿」と「原稿」

書籍の編集のプロセスにおいては、原稿→ゲラ→(白焼→)書籍というふうに進行していきます。著書が手書きなりwordなり一太郎なりで書いたものが「原稿」です。最初にできた原稿が「初稿」ですね。完成稿(定稿)を編集者が受け取ったら原稿整理をして、入稿してゲラ(校正刷り)にします。これ以降の文章を原稿なり「〜稿」と呼ぶことはまずありません。ちなみに最初のゲラは初稿と発音が同じですが「初校」。

そういう観点から見ると、すでに刊行されたものを「〜稿」と、呼ぶことにはたいへんな違和感があるのです。これは職業病的な感覚なのかもしれませんが…。たしかに、一般には、書かれた文章をひろく「原稿」と呼ぶことはありますし、未完成のものだけを「原稿」と呼ぶのは単なる出版用語ではないか、という指摘もあるかと思います。

現実に使われている「本稿」

「本稿」は結構古くから使われている

とはいえ現実には「本稿」「拙稿」は刊行後の文章を指す言葉として非常によく使われているので、それはもうそういう意味でいいのではないか、という考えももちろんあると思います。調べてみると結構古く、明治の終わりくらいから刊行物で「本稿では〜」と使われていました。

また、web上の辞書には「本稿」が「この論文」の意味で載っているという指摘もありました。『実用日本語表現辞典』は実用的な文章で使われている用例を収録する編集方針を有する辞書なのでわりと柔軟なタイプの辞書ですが、ここに載っているということは一般的に定着していることの証左でもあると思います。

また、『〜稿』という書物は結構あるようです。遺稿をまとめたものとか、未発表だったものを第三者が編纂したものなら「稿」の本来の意味に則っており、稿といって差し支えないと思っていたのですが、漢籍でも自身が書いて上梓したものに『○○稿』と名付けた書物は存在しているようです。知らなかったので勉強になりました。

「寄稿」「玉稿」

現代の日本語において、現実に刊行された後でも「稿」が使われている例として「寄稿」があります。たしかに雑誌などでは、寄稿していただいた文章を刊行した際も「寄稿」として掲載されています。「寄稿」がその行為を指すのか、その文章までも指すのかで解釈が分かれそうではありますが、後者の立場なら刊行後の文章も稿という例であると言えそうです。

また、論文の抜き刷りを頂いた際に「玉稿を拝受しました」などとよく言われます。たしかによく使われるのですが、わたしはこれにも違和感があります。もともとこの言葉って編集者が著書から原稿を受け取ったときに使う言葉から派生したのではないかと思うのですが(要確認)、刊行後のものを玉稿と言ってしまうと、なんか相手の書いたものを未完成のもののように言っているみたいな気がして失礼な気がしなくもないです(繰り返しますが、他の人の言い方を取り締まるつもりはないし、自分の論文にが仮に玉稿と言われたとしても不快に思うことはありませんっていうかむしろ恐縮です)。

書いている時点では「稿」

原稿を執筆している時点では「稿」なのだから「本稿」と書くことは間違いとはいえない、という意見もいただきました。

ただこれにはあまり納得できないのです。刊行が決まっているならいずれ稿でなくなることは自明なわけで、それに合わせて著者校正なり定稿提出時に書き改めるべきではないかと思うのです。たとえば書籍の序章において、「本書の構成は以下の通りである」となるところが、「本原稿の〜」となって出版されていたら、いやいやこれはもう原稿じゃなくて書籍じゃん、と突っ込みを入れたくなります(そうでない人も結構いるようですね…)。「本稿」にも同じような違和感を覚えるのです。「本稿執筆時点では〜」みたいな文ならいいと思うんですけど。

つまり、通常、外に出して長く読まれるであろう文章を書くときは、執筆時の時制に依存する書き方はしないか(たとえば「今日」のかわりに「○月○日」と書くとか)、あるいは注釈を付ける(たとえば「今日(○月○日)」と書くとか)だろうということです。仮に著者校正の際、ゲラに文章を追加したとしても、そこで「この校正刷りでは〜」とは書きませんよね。

また、原稿執筆時点では稿だから誤りではない説を採るとすれば、既発表の論文を「拙稿」と呼ぶことはできないということになりそうです。

また、ある方は全ての文章は未完成だから「稿」だとおっしゃっていました。なるほど、そういう信念をお持ちであれば堂々と稿という語を使っても差し支えないでしょう。

謙遜としての稿

自分の書いたものを謙遜して、未完成なものだから稿というのでは、という意見もあって、これはなるほどなあと思いました。あくまでこの論文に書いたことは暫定的なものである、今後まだ更新されうるものである、みたいな意味合いを加味したいならたしかに「本稿」「拙稿」と書くのも頷けます。

稿がダメなら、では、何というか

本稿や拙稿がダメならなんと言えばいいのか、という意見もいただきました(ネットで検索できるならご自身でお調べになったらいいと思うんですが)。

本稿の代わりとしては、論文なら本論本論考本論文本研究など、書籍なら本書本研究などがあると思います。

拙稿の代わりなら拙論とか小論でしょうか。小論はこの論文という意味にもなりそうで紛らわしいかもしれません。

さいごに

繰り返しになりますが、言葉にはさまざまな正しさがあるなかで自分なりに正しいと思う使い方をすればいいし他人の文章にケチを付けるつもりもないので、自分が適切でないと思うからといって他人の使うそれを批判することもできない、と日ごろ思っているのですが、その辺をすっとばして迂闊な書き方をして不本意な形で拡散されたことのフォローとしてこの記事を書きました。フォローできているか分かりませんが…。

編集をしていると、本来の意味から外れた文章に時折出会います。最近だと「すべからく」をおしなべての意味で使うのが散見されますね。そういうときむやみに修正することをわたしはしていません。本来の意味はこうです、最近はこういう使い方もよくされますけど、とコメントして、あとは著書に委ねることにしています。それも著書の書きぶりとか文章の内容とかを考えてどの程度の逸脱なら指摘するかを決めるので、荒木に渡した文章に「本稿」「拙稿」があるからといって必ず指摘が来るわけではないので、著者の皆さま、それはご安心ください。

以上に挙げた以外にもこういう考え方もあるのでは、という意見をお持ちの方もいらっしゃるでしょうが、言いたいことがあればnoteのコメント欄をお使いください。

なお、いつものことですがTwitterではフォロー外の引用やリプライはほぼ見ていませんし(今回は見ましたが)、通知も来ないようにしてます。見たとしても返答はほとんどしませんのであしからず。どうしても返事が欲しい方はDMをどうぞ。


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