見出し画像

「ありがとう」の価値

何の前触れもなく、たまにふと思い出す出来事がある。もう10年くらいか、それ以上前の話。

当時今とは別の会社で働いていたのだが、その日は土曜日で、私はたまたま出勤していた。出勤している人は少なくて、一部の人しかいない、土曜日特有の気の抜けた自由な空気が快適だった。
その日来ないはずのある女性の先輩が、忘れ物があったのか野暮用があったのか、顔を出した。当時小学校1年生だった娘さんを連れて。

その先輩の娘さんとは少しだけ面識があって、私のことを覚えているかはあやしかったが一応、「〇〇ちゃんこんにちは」「そのワンピースかわいいね」「あめ食べる?」などと機嫌をとっていた。(最後のは大阪のおばちゃんかとつっこみたくなるでしょうが、放っておいてください。)

微妙に気を使うことに適度な面倒くささを感じつつ流しながら仕事を再開し、しばらくすると、その娘さんがおずおずと私の元へ寄ってきて、

「Asamiちゃん、これ・・・」

と目に見えて不安そうなおどおどした様子で、ある書類を手渡した。仕事上私に必要なもので、この日顔を出した先輩から受け取るはずのものだった。
娘さんのちょっと離れたところには先輩がいたので、この先輩が娘に仕事を託してみたのだろうと思った。「これ、あそこにいるAsamiちゃん(先輩に下の名前は知られていた)に渡してきて。」
察した私はごく普通に、
「おっ、ありがとー!」
と言って受け取った。

いつもの感じである。
いつもの、日常的に、先輩や上司には敬語で使う軽めの「ありがとうございます」。ちょっとしたことでごく普通に、下手をしたら、「ざーす」くらいな感じで使う人もいる、あの程度である。

ただ、違った。いつもと決定的に違った。
この軽めの「ありがとう」を受け取った、この娘さんのリアクションである。


本当にこういう顔になった。


(イメージのみ伝わればと適当に時間をかけず描いたので、雑でお見苦しいイラストですがすみません。)


これは一瞬で「そうか」と思わされた。

この子にとって、というか、純粋無垢な子どもにとって、というか、本来この言葉は、人にこういう顔をさせるほどの価値のある言葉なのだ。

私たちが何気なく日常的に(さして気持ちも込めずに、かもしれない)使っている
「ありがとうございまーす」
という程度の言葉でも、この子にとっては大きな喜びの一言だったのだと、顔を見て気付かされた。
あの顔の元になった感情が「感謝されてうれしい」なのか「役に立ったことがわかってうれしい」なのか分からないが、この一言の威力にとても驚いた。

大人になるとむず痒かったり、ありがとうございますという本質よりも「すいません」が先に来てしまったり、日常会話レベルの価値になってしまったりと変に敬遠されたり、あるいはずいぶんとラフに使われる言葉になる。だが、
「ありがとう」
とは本来、人にああいう顔をするくらいの喜びをもたらす言葉だ。

その形が「ありがとうございまーす」でも「ありやーす」でも「ざーす」でも、
侮るなかれ「ありがとう。」
「ありがとう」という一言で人との気持ちは繋がる。
この一言が交わされるかどうかで、その人へ届く自分の気持ちも違ってくる。

日常の中で、このことをふと思い出すたびに、少しだけ身の引き締まる思いがする。

そんな話。


読んでくださって、ありがとうございます。これ見よがしに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?