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遊んで暮らしたい

ねんど遊びをやっていて気がついた。遊ぶことが好きだ。

遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある。
遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる(むろん、他者はそれを容認しない)。

Wikipediaより


最後の一文「悪意に基づく〜」というのは人として絶対に陥りたくない行動だが、なるほど「遊び」というのは、生命の維持に必要な基本的なこととは別にして、あくまでも心を満足させる目的であるものらしい。

趣味とも特技ともつかず、決してひとつに限定されず、いつも様々なことに興味がわいてくるこの根なし草のような生き方なんなのだろうと長く自分で思って負い目を感じていたこの私だが、単に興味の赴くまま遊んでることが好きなのかもしれない。
(万が一の自分の名誉のために注釈しておこう。男遊びなどの意味の「遊び」でないし、相手が1人に限定されない意味での「ひとつに限定されない」ではない。)

年齢を重ねてなまじ知識や知恵がついたり、自分の生き方にこだわりや迷いが出てくると、やりたいと思うことがあっても、それが先へ繋がるのか、自分の実りとなるものなのか、利益はあるのか、人がどう評価するか、一体何になるのか、そういうことに反射的に思考が巡るようになる。親切に人からアドバイスされることもある。
個人差はあると思うけれど、そうした自分や外部からの発言で計算がうまれ、やりたい!と思ったことに思考が加わり、二の足を踏んでいるうちに重くなり、日を跨ぐと重さが重なって結局やる前から諦める。

私には昔から自分で自分のハードルを高く設定する癖のようなものがあり(誰も望んでいないのに)、初めから無理そう、無駄そう、誰にも見てもらえなそう、こんなことやったって、という理由でやらない(できない)パターンが多かった。
それに加え、何かひとつに特化できていない生き方を責めたり優劣をつけるような外部の圧力や、素直にそれを受けての自己嫌悪もあるなどして、精神的にも、「何も生まれないけどやりたいこと」に気軽に手をつけられるような状態でなかった。
こういうことで生まれたらしいガチガチな思考が、「遊び」という言葉を意識することで少しほぐされたようだと思う。
「遊び」ならば何も残らなくてもいい。遊びなのだから。

私にはなにかを「自分でつくってみたい」という欲求(好奇心)があるようで、これは考えてみると自分にとっては「遊び」に近い感覚だ。
読書や映画鑑賞は「趣味」に近く、遊びに近いのは、絵を描いてみたり、写真を撮ってみたり、ネットの情報を見て料理してみたり、先のようにねんどで工作をしてみたり、自分で「つくる」もののようだ。
そしてその遊びの根本は、単に自分が「やってみたい」気持ちから生まれている。

将来に向けてなにか生産することを目的としていないし約束もされていない。お金になる行動でない。履歴書に書けることでもない。特別、人から尊敬を集めることでもないし、そもそも上手でないかもしれない。
一見何にも意味がないように見えること、それでも「やってみたい」と心がざわっとしたさまざまな挑戦や遊び、これをやってみることによって心が解放され、軽くなり、その日少し満足して眠りにつける。
結果でも、人の評価でもなく、これが自分のやりたいことの根本なのではないか。

興味の赴くまま、つくること、遊ぶことが好きだ。
好きなことややりたいことをやっていきたい。
仕事じゃなくても、意味がなくても、こういう自分の遊びに身を投じながら生きていたい。

そういう目的で生きて毎日生活するためにもお金は必要だし、お金を得るための仕事は、どうしても嫌なことや体に無理があるものでなく比較的向いていることであれば、必ずしもこれまでのスキルを活かせて友人や外に向けて自慢できる華のあるものや立ち位置でなくても構わないと思うようになった。(違う仕事を舐めているわけでは決してないが。)
仕事が全部でなく、生活費や何かをつくってみたり好きなことをやるために必要な金銭の稼ぎ方。そういう中でたまに、喫茶店に出かけてコーヒーを飲めたらなお最高だ。そういう時間もある中で過ごせていければけっこう幸せ。その延長線上で、別のなにかが生まれ選択することになったらそれも良し。

現在絶賛転職活動中という身の上で、さらにいよいよな年齢なこともあり、これまでとこれからを大きい範囲で見直す機会が多くなった。とはいっても元来のふわふわ感は抜けていないようだが…
さあどうなるのだろう。

ねんど遊びをきっかけに人生を考えるという壮大なことに発展してしまった。


ねんどはまだ着彩できていない。


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