「忘れもの」~原爆とスマホゲーム
きっかけは、スマホゲームだった。
それは、二〇一四年秋から関わっている全世界のスタンプラリーである。各地域にテーマ付きのルートとチェックポイントが存在し、訪れた場所の情報と、異なるデザインのルート完了スタンプが提供される。
広島ルートには原爆慰霊碑のチェックポイントがとにかく多い。公園の隅に小さな石碑があったり、壮大な石碑が立っていたりする。驚くべきことに、慰霊碑は、爆心地から約五キロメートルも離れた地域にまで点在していた。
ユーザーには楽しみと驚きが待っている。たとえば、市民球場跡の『世界の子どもたちの像』とカープ優勝記念碑を同時に目撃したときには、このチグハグさに笑ってしまった。
時間はたっぷりあった。子どももいないし、やっているのはスマホゲームぐらいなものだ。そのスマホゲームでは、スタンプラリーとして、地域のトリビアが画面に表示される。
自分でもルートを調べよう。このトリビアを確認するのだ。
広島に住むよその人間として、日ごろの生活にスパイスが効いてくるに違いない。
中区へスタンプラリーに赴いたのは、どんよりとした火曜日のことだった。チェックポイントとして導かれたのは、E=MC2のモニュメント。これは、まだアメリカが日本を占領していたときに、広島の人が、原爆のことを少しでも伝えたい、だが、言論統制でそれが出来ないという現実があったため、やむなくモニュメントを作ったというのである。
遠雷がとどろいた。もうすぐ雨が降ってくる。
わたしの故郷は三重県の田舎である。アメリカは自由の国であると疑ったことは一ミリたりともなかった。それが、言論の自由を制限するとは。
核兵器保有国は、被爆者からの視線や怒りを、憂えているのだろうか。オバマ大統領やG7も来た。ロシアに侵攻されたゼレンスキー大統領までが来たものの、実感は出来なかった。いま、現在、若者を中心に原爆否定が広がっていると言うが、核兵器廃絶には結びついていない。図書館でこのアメリカによる言論統制が事実だと確認できたとき、自分の無知を恥じた。
この問題を、わたしならどう解決するだろう。もし、解決するとしたら、どんな方法を思いつくだろう。いや、なにも思いつかない。知らないことが多すぎる。
わたしにとって原爆は、初めのうちはテレビでも眺めるように、客観的に留めていた事実だった。それほど交流のない被爆者の実情を、広島にいる以上は少しでも知っておきたい、という単純な好奇心によるものだった。
しかしこうなってくると、わたしの感覚は、単なる好奇心ではなくなった。自由を標榜する国ですら、そのタテマエを歪ませる核兵器に対して全面的に、疑いもなく、廃絶しなければという信仰に近い確信に傾いていた。被爆者に対して、アメリカはどう思っているのだろうか。それが正義の国のすることか。それは単なる理論や仮説ではなく、深い内面から湧き上がる感情だった。
他人の不幸は蜜の味だが、一見甘美に見えるかもしれないその味が、本当のところは心の底に深い痛みとして残るものであった。
被爆者だった義理の祖母のこともあって、原爆は他人事とは思えなかった。その事実が私自身の人生と深く結びついていると感じていた。
この広大な世界のどこに、自分たちを絶滅させるかもしれない兵器を、歓迎する人間がいるだろうか。それは、自分たちの生命だけでなく、他の無数の生命をも奪う可能性を秘めている。それにも関わらず、なぜそのような選択をするのか、理解することは難しい。
核兵器と人類の共存は絶対に許されない。それが広島の人々からの強いメッセージだ。
その広島の願いを深く心から愛したい。そしてまた、広島自体を、その歴史と人々、そのすべてを愛したい。
一体いつからだったのだろう。このように強く思うようになったのは。その瞬間を思い出すことは難しいが、確かにその感情は心の中に深く根付いている。
わたしの関わっているのは、スマホゲームだけでない。遡れば一九九年ごろから合唱サークルの公民館活動をしている。ある年、八月六日に原爆をテーマにした歌を、太田川のほとりで歌うことになった。広島でよくある平和活動の一環である。練習のとき指導の先生は、力強くおっしゃった。
「たとえどんな目に遭ったとしても、希望は捨てちゃいけん!」
先生は、過去にオペラ『はだしのゲン』の母親役を演じたことがあると語った。それから何十年も経った今でも、ゲンのお母さんが情熱的な人だったことだけは、鮮明に記憶に残っていると言っていた。
さて、その太田川の歌には、死の焔から甦ったヒロシマという内容の、力強い歌詞がある。
この歌詞は、何度も試練に遭遇しながらも、力強く立ち上がってきた広島の人々を象徴している。死の街から不死鳥のように甦り、平和都市広島を築き上げた人々。
新聞の折り込みにポップなチラシが入っている。丸いフォントで描かれたメッセージは【黒い雨の被害者は名乗りを】という文字。
それらは、非日常と日常が交錯する一瞬。広島の歴史と平和への願いが、彼らの日常に深く根ざしている証だ。
年長者たちは、「カープは今日も負けた」とか、「昭和の大スターは、現在どうなっているのだろう」と言いながら、原爆の話をする。
「あの人は原爆症で寝込んでいるらしい」
年寄りが、わたしにささやく。
「お見舞いに行くんですか」
わたしが聞くと、
「行かない。だいたい、病院にも入りたがらない人だから」
と真顔で言う。
「というのも、原爆直後に広島に来た医者が、息をするだけで被爆するとしてすぐ帰っちゃったことがあってねえ」
七〇年間草木も生えないとされていた時代のことである。当時の科学者のその言葉に、まして心ない医者の言葉に、どれだけの人が絶望し、傷ついたことだろう。被爆者たちの生の声がわたしをとらえて離さない。
「道に新しい柱が出来たかと思って近づいて見ると、それはドクロの山だった」
「ガラスが爆風で飛んできて、身体中に突き刺さり、血みどろの被爆者たちが太田川に飛び込んで行った」
「原爆の衝撃で、目玉が飛び出した。被爆者はそれを引きちぎって歩んでいった」
身ぶり手ぶりをいれる証言者。憎しみを越えて、淡々と語るその声が、わたしの中でこだまする。
日常を超えた恐怖を目の当たりにしながら、なぜ、あんなに平然としていられるのだろう。
彼らの語る原爆投下直後の話は、人間としての尊厳を蹂躙するもので、聞くだけでも耳を覆いたくなる。
この世の終わりについて、聖書には川が血に変わり、天が巻物のように巻き上げられると書かれている。ずるむけになるほどのヤケドを負ったり、水を求めて溺死したりした被爆者の惨状は、その恐怖の描写を連想させた。神を思い描く人々が世界の終わりを夢想するように、広島の人々は原爆による破滅を頭に描いている。
こうして机上の空論に過ぎなかった戦争が、現実味を帯びて迫ってくる。ロシアが核兵器の使用をほのめかしているからだ。
テレビで中東やウクライナの画像が放送されたことがある。緑、茶、黄褐色、灰などに彩られた戦車が、やせ細った人々の間を駆けていく。流線形の戦闘機が、空を切り裂いて飛んでいく。
混沌が支配する世界に、終末や天国などを見るのが認識という作業だ。ただ観察し、眺めているだけでは、なんの行動にも結びつかない。
他人はともかく、わたしはそれでは満足できない。
もっと、実感の湧く「なにか」が必要だ。
広島にあるのは、被爆の惨状だけなのだろうか。広島の未来への視点と現在の生活への具体的な期待や活動には、どんなものがあるだろうか。
そうだ、わたしには、サークル仲間がいる。日常的に、原爆の話を平凡そうに語る人々。この人たちに、被爆の実情を聞いてみてはどうだろうか。
行動は、破滅も創造も、なにもかもひとつにしてしまう。ひとつ行動するたびに、なにかが創造され、なにかが破壊される。だが、「なにがあっても希望を捨てるな」と指導の先生は言った。
原爆のおそろしさ、醜さの中には、人間としての生きる「なにか」が含まれるはずだ。
「季節はめぐり、時代はまわる」というお気楽な思想では、核兵器廃絶にはつながらない。悲願も達成できない。
つらくて思い出したくない人もいるだろうが、風化させてはならない。サークルには、かつて被爆者もいたのだ。現に、サークルでは、今も原爆をテーマにした歌を歌っているではないか――そんな気持ちで、会員たちを直撃した。
「あなたの被爆体験を聞かせて!」
複数の人にそう言うと、根っから明るいシニアたちは、カラカラ笑いながら言った。
「そうねえ私には無関係だもん」
「聞いてどうするの? つまんない話だよ?」
「ここには被爆者は、もういないからねえ」
「楽しく歌ってればいいのよ」
「先生だって、被爆の話はしないでしょ。さあ、合唱の練習練習!」
驚いた。あれだけ日常的に原爆を語っていたのに、いくら今は被爆者がいないからって、あの証言はどうなってしまったのだろう。
広島の人々が切に望むこと、それは核兵器の全面的な廃絶ではなかったか……。
いつの間にか、太田川での歌の参加もとりやめになった。原爆と広島の関係が、よくわからなくなってきた。テレビでは、継承の大切さを訴えている。被爆者たちは声を上げている。だが、身近な人々は建設的と言うよりむしろ無関心と言ってもいい。正直、この神経の太さには、感心するというかあきれるというか。
このままではラチがあかない。インタビューが無理なら、現地で実際の慰霊碑を見よう。そうすることで、核兵器のおそろしさや非人道性を目撃したい。
これまでスマホゲームで地元のトリビアを知った。このゲームはユーザーに驚きを与えてくれる。今度は牛田(うした)へも行ってみよう。
テレビ広告で、住宅展示場があることぐらいは知っている。そこにルートがあるらしい。慰霊碑をめぐってみよう。象徴的な慰霊碑を通じて、原爆について深く理解したい。
夫とバイクで牛田に向かった。
しかし牛田で目撃したのは、慰霊碑ではなかった。それ以上に興味深い、広島のご当地スポーツだった。
通常どおり、わたしたちは、街角に置かれた、被爆当時の写真銅板を見つけたり、電車の駅で駅員とモニュメントについて話したりして、ルートをたどっていくうちに、あるテニスコートへと導かれた。
「おや、これをごらん!」
夫が示したのは、『エスキーテニス』という項目の書かれた、チェックポイントの金属碑。板のついた立方体のモニュメントだ。
「エスキーテニスって、なんだろうね?」
夫が、ふしぎそうに金属碑を見つめている。
チェックポイントを見ながら、脈拍が速まるのを感じた。これってなんだろう。スポーツの一種だろうが、初耳だった。
「『エスキーテニス』は、1948年に「スポーツで平和」を実現するために、広島で誕生した競技なんだって。テニスと、卓球、バドミントンを合体させた競技。学生から社会人まで楽しむ、地元の大会が開催されているそうよ」スマホを見ながら、わたしは言った。
ルールを簡単に言うと、試合は,3セットとし,2セットを先取した方が、その試合の勝者となる。そのほか細かいルールもあるが、ここでは触れない。
目の前のスマホから視線をそらし、周囲を見渡すと、テニスコートが広がっていた。コートの上では、ラケットを手にした人々が、体を全力で動かし、楽しそうにプレイしている。通常のテニスのプレイと変わらないように見えた。
よく観察する。テニスコートでスパーン、スパーンとラリーが続く。その場にいるのは、六人程度とさほど多くない。試合がひと区切りついた。
コートに近づいた。やせ型の女性プレイヤーが、ラケットを振るのをやめて、こちらを見ている。心臓が、この胸の中ではねあがっている。緊張で口の中は乾いていた。
「こんにちは」
女性は目を細めている。警戒しているのだろう。
「このへんは、初めてなんです。ここ、『エスキーテニス』の発祥地は、ここですよね」
笑みを浮かべ、親しげに話しかけてみた。女性は、警戒を解いて、軽く驚いたように言った。
「エスキーテニス? なんですか、それ」
夫が、心配そうに、こちらを見ている。心が煙たくむせてくる。さまざまな感情が、黒雲のように胸を通った。
「あのお、ここにそのことが書いてありますよ」
女性の腕を引っぱった。銀色の板になっているモニュメント。女性は、眉を寄せて、ラケットを胸に抱き、首をかしげた。
「たしかに、エスキーテニスと書いてありますね。だから?」
その女性は、まばたき一つしていない。完璧に、無表情だった。傍若無人な目。
わたしは、素早くスマホで、動画を確認する。ちょうど、卓球型のラケットを振りまわす姿が、映っている。
「これがエスキーテニス。あなたもご存じのハズですよね?」
「いいえ、ぜんぜん知りません」
顔に火がつくのを感じた。手で前髪をかきあげてみる。冷や汗がどっと出てきた。
「でもほら、目の前に、モニュメントが!」
地元なのに知らないなんて。あまりの衝撃にわたしは、金属製の記念碑を、震える指で示す。
「ふーん?」
それっきり、女性はテニスコートへ戻ってしまった。
信じられない思いだった。被爆後の誓い「スポーツで平和」の志が、忘れられている……。
先ほど述べたように、戦後の復興の象徴『エスキーテニス』は、広島が発祥地だ。気候がおだやかで、瀬戸内海の幸や人情も豊かな土地である。原爆に負けない、希望を失わない精神が、そこにある。
昔のことなど、この透明な海からは想像も出来ない。つまり、原爆も『エスキーテニス』と同じように、日本の一般社会では――いや、世界でも、マイナーな体験なのである。
死は、どんな人も避けられない運命だ。人間の存在の一部とも言える。
人は、皆、平和で豊かで便利な生活を追求する。言ってみれば現代の一般的な常識である。
このような風潮の中で、被爆者たちは証言を繰り返す。そのたびに、言葉はより滑らかになり、演劇の要素が次第に加えられる。
「ピカーッと光が、押し寄せてきました」と彼らは語る。原爆の光が圧力となって襲ってきた瞬間を、手ぶりを入れて熱弁する。その言葉と動きから、その時の恐怖と絶望が伝わってくる。だが、その恐怖を克服し、使命を果たすため。後遺症や病気と闘いながら、核兵器廃絶を叫び続ける。
自分たちが経験した同じ苦しみを、他の人々に感じさせたくないという強い思いが、その行動の背後に存在している。
しかし、さまざまな意見や視点が存在するのが世の中の当然であり、同じ質と量を持つ異なる意見が存在するもの。それらは時として互いに対照的で、議論を複雑にすることもある。
例えば、ある男性は、被爆者たちに対して、非常に厳しい視点を持っていた。なぜそう思うのかは説明しなかったが、彼は彼らを「社会の空気を読まず、利敵行為を行っている」と批判した。
さらに、その男性は、「核兵器の廃絶は現実的な目標ではない」と主張した。彼は核兵器は減らすべきではない、と言った。
わたしは、その人に聞こえてしまうほど、大きく息を吸い込んでしまった。一歩うしろに下がった。胃がムカムカしてきた。
息を吐いたら、深いため息になった。
核兵器は減らすべきではない――。そんなことを聞いたのは、生まれて初めてだった。
彼が言うまでは、わたしは原爆は、ぜったいに悪であると信じていた。ところがその感覚を、信念を、いま、真っ向から否定された。
議論の相手を見やると、けっして冗談で言っているふうではなかった。
硬い決意と信念を感じさせるその目は、直線的にわたしを突き刺している。
わたしは対抗する言葉を集めてみたが、怒りがこみ上げてきた。
そこで冷静になろうと背を向けた。
その人は、勝利を確信したようだった。
「現実を見ろよ。まわりはぜんぶ、核兵器を持ってるじゃないか!」
わたしは、振り返った。
「じゃあ、もし、戦争になって核兵器を日本に落とされたら? たとえば東京に核ミサイルが飛んで来たら?」
ところが彼は、鼻で笑った。
「そんなことにはならないね。核兵器がある、それだけで充分効果がある。今の状態じゃあ、尖閣諸島にウロついている敵すら、まともに追い払えない」
――他人の不幸を蜜のようだと感じ、その中に潜む残虐性を、味わうのが人間だ。
とも彼は言った。
この蜜には、さまざまな用途がある。傷ついた人々の苦痛によって他人を自分の意志に屈服させることが可能なのだと。
彼は、これを現代の正義と定義する。被爆者の惨状から力を得て、それを自分の武器にする。それが彼の信じる、そして強く主張する現代の正義の姿であった。
わたしは絶句した。
そんな馬鹿なことがあるものか。
信じられない気持ちでいっぱいだった。嘘だ、きっとそうだ。
聞きたくない、耳に入れたくない。
頭の中は、激しい感情によって真っ赤に燃え上がっている。
しかし、白いペンキでもかけるように、彼の言葉がびしゃりとかかってきた。
脅すために、相手を亡ぼす力を持つのだ。
スウッとさめてくるのを感じた。その論理は「通常の力」を意味する軍のそれではなかった。
こんなことを言う連中に核兵器を持たせているなんて。
アメリカと言いロシアと言い、人を脅して言うなりにさせる、これのどこに正義があるのか。
汗が出て来た。自分の服を引っぱり、軽く拳を握りしめた。
誇り高く、人間らしく生きるために理想は必要だが、現実は異なる。
何と言っても、世界は、「なごやかな話しあい」だの、「空気を読む」だのという日本独自の理屈では、通用しない。
わたしが、どれだけ被爆者の惨状を訴えても、リアリティがあるのは、敵意を向け合う国同士だったのだ。
その事実を告げられてしまった今、お互いに理解し合うことはできないと悟った。わたしたちは激論を交したが、ついに別れを選ぶことになった。去り際に、彼の投げかけてきた鋭い瞳が深く印象に残っている。
わたしを貫くかのような視線。彼の感情が如実に表れていた瞬間だった。忘れることはできない。
我々の関係は一切途絶え、それっきりになってしまった。
かつて固い友情で結ばれていた二人の関係が、一瞬にして断ち切られた瞬間であった。
意見が違うと言うだけで、こんなにも人は対立してしまう。同じ日本人でもこうなのだ。まして外国ならどうだろう。たとえば、自由主義国家と共産主義国の対立。過去の西洋諸国でも、宗教が違うだけで戦争になったことがあったではないか。
では、人は対立するのが性なのか。憎み合い、敵対意識を持つのが、あたりまえなのか。
偉そうに語ったものの、核兵器についての具体的な知識はほとんどない。エスキーテニスを知らないあの女性と同じだ。そう気づいた瞬間、わたしは深い自己非難の感情に襲われた。
思えば同じ事を、わたしはしている。例をひとつ挙げるなら、高校の時に、修学旅行で広島へ来たことだ。小雨降る資料館に入った同級生たちは、居並ぶお化けのような人形を見て、引きつった笑いを浮かべたり、泣いたり足が震えたりして、先に進めなかったものだった。
わたしは、この人形を見て、物足りないと思った。
あの核兵器擁護論者の言葉が脳裏をよぎる。
――人間の奥底には、残虐性がある。
愛情の反対は憎しみではない。無関心だとマザー・テレサは言った。
世界がまるで違って見えてくる。このスマホゲームのスローガンも、「世界は見たままではない」である。
新たな目で見る晴れた日のコートでは、ラリーが相変わらず続いている。白球がコートに突き刺さり、歓声が湧き上がる。そして、審判が相手チームの勝利を宣言すると、その瞬間もまた、歴史の一コマに飲み込まれていく。
むくむくと疑問が湧いてきた。わたしは自問した。
歴史とは、なんだろう。
日常の積み重ねだけではない。もっと大きなものがあるはずだ。
ナナメに視点を変え、深く考えてみよう。ふつう、歴史を学ぶ手段は教科書だ。自分史や郷土史などの資料もある。
三百年後には、将来、今ここで、生きている私たちの現代も、「中世史」になる。江戸時代が「中世史」として語られるように。
『過去の人たちって、ヘンだったのね』ドラマや映画を見て、未来の人たちは、嘲笑するだろう。
予想して考えてみた。三百年後の世界。相変わらず列強国が、いじめっ子の論理を振りまわしつづける。もてあそぶミサイル、戦闘機、戦車。諸外国の子どもたちは面白がって、みな被爆者ごっこでもするのだろうか。
ゾッと寒気が走り、胃の中に氷がザアッとなだれ込んできた。
「いやだ」
わたしは、思わず声を上げた。
「そんな未来は願い下げだ!」
突然の大声に、テニスコートの人々が、好奇の目を向けてきた。わたしは、うずくまってしまった。胃が痛くなってきたのである。
「だいじょうぶかい? もう帰ろうか」
夫が、コート脇にやってくる。手を差し伸べてきた。
見あげると、太陽を背にしたのっぽの彼。この優しい彼にすら、伝えるべき言葉がない。悪酔いのように身体の中に、無念さが残っていて物憂かった。
わたしは、夫の手を取って立ち上がった。
「なんか疲れちゃったわ……。戦争の残骸しか見ていないのね……」
バイクに向かって歩きながら、夫にこぼした。
夫は言った。
「広島人のぼくが言うのは、矛盾しているかもしれない。でも被爆者の証言を聞きながら、居眠りするシニアもいるんだよね」
どんな経験も、日常になれば慣れてしまう。たとえ、恐怖であったとしても。被爆者の悲しみも怒りも、日常の中にすり減り、やがて消え失せていくのだろうか。
「だけど、ここにも平和への願いがあるわ。スマホでそれを案内してくれる人もいる」
わたしが言うと、夫は歯を見せて笑った。
「そうだね。希望は捨てちゃいけん」
忙しい日常を抱える人々の無関心は、他人の不幸を喜ぶ醜さから来るのではない。
人間的な醜さと幸福の性質が、それぞれ無関心を持つ。
被爆者の惨状に対する同情が、これらを無理に結びつけ、自意識やエゴを生んだかもしれない。
だから、わたしは核兵器擁護者を、説得できなかったのだ。
けれども人間は、人の不幸を喜ぶ一方で、幸福への手助けをする気性も持ち合わせている。
たとえば、ナイチンゲールなどがそうだ。彼女は敵をも理解していた。
わたしは、空を見上げた。焼けた雲は、新たな発見と願いが焦がしている。
そうだ。理解すること。それがすべての始まりだ。
被爆者が、今までどのように生きてきたか。
核兵器擁護者に、どのような背景があるのか。
長い歴史のある諸外国や被爆者である。簡単には理解できないかもしれない。
だからこそ、一層、我々の全力を投じる価値がある。
理解をするためになにができるか。
反論もあろうが、まずは疑うことである。
「世界は見たままではない」。
より深い理解への努力を続けることで、被爆者や、彼らに厳しい目を持つ人とも、共に歩むキッカケを作れる可能性が、あるのだ。
「希望を捨てちゃいけん!」
頭の中を、声が高らかにこだまする。
わたしは、「時代の忘れもの」を見つけた。
では、この「時代の忘れ物」に対して、どう行動すればいいだろう。
単に疑うだけではなく、仮説を立てて考えなければならない。理解とは、考える事と同義であるはずだ。
この忘れものを見つけたからには、世の中に報せるのがわたしの責務。
そのことで嫌な思いをするだろうなどと、迷っている場合ではない。
あるいは、魔が差してネコババしている場合でもない。
「時代の忘れもの」は、それ自体に存在意義がある。時は過ぎゆく。ためらったり、泣いたりしている時間はない。
いつか忘れられ、消えていく一個人に、何が出来ようか。笑う人もいるだろう。
――だが、それは問題ではない。
まだ太陽は落ちていない。まだ灯は消えていない。なにか、大きな物語が、開けていく予感がする。
いじけてる場合ではない。どれだけ小さな一歩であっても、前に進もう。その一歩が、人生を変える、きっかけになるかもしれないのだ。
日が暮れていく。夕日が完全に地平線に沈み、一番星が空に浮かんで見える。その星は、暗闇の中でひときわ明るく輝いている。
夫が声をかけた。その声は、希望に満ちていた。
「じゃあ、行くよ」
エンジンが始動し、バイクがぶるんと動き始める。タイヤが地面を転がり、わたしたちは進んで行った。未来へ向かって。
(了)
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