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2-7. Sail!

エンジンが音を立て、船は動き始めた。徒歩と同じくらいのスピードで、停泊しているボートの間を縫って進む。時折沖合を進むフェリーが立てる波にぶつかって、その時はぐらぐらと揺れはしたが、危険を感じるほどではなかった。

水の上を進む、というのは不思議な感覚だ。カヤックの時もそうだったが、自分がコントロールしているようで、実際にはコントロールしきれないものに対して自分が合わせている。

水面が、ヨットに合わせて割れてゆく。さざなみが立ってゆく。

動きはひどくゆっくりと感じられていたのに、気づけばヨットはもう入り江からは出ていた。少し波が高くなり、帆は大きく風を受けて船体を傾かせた。

ジョージは船尾に立ち、風を確かめながらオールをゆっくりと左右に動かした。
風と一体となっている。その心地よさに、私はほっと息を吐き、進行方向とは反対側を眺めた。
ビーチからは端しか見えていなかったハーバーブリッジが、今はほぼ全て見える。

時折、クルーザーやジェットスキーが通り過ぎる。

「シープレーンだ!」
ジョージの指差す方を見ると、水上飛行機が高度を下げてくるところだった。湾の向こう側に着水するのだろう。クルーザーだったり、シープレーンだったり、世の中にはお金を持っている人がたくさんいるのだなぁと人生のバラエティに感心する。

「ちょっと私もさわらせてもらってもいい?」

操舵してみたくなり、私はジョージに頼んだ。サングラスの下で表情は読めなかったが、警戒しているのだろう、少しだけ考えてから彼は答えた。

「いいよ、ただし僕の言うことをよく聞いてね」
「もちろん」

私は立ち上がると、ジョージのそばへ寄った。

「まず片手でヨットのどこかにつかまって。もしバランスを崩してオールを思いっきりどちらかに切ってしまったら、転覆してしまうからね」

私は言われた通り、左手でデッキのヘリをつかみ、姿勢を安定させた。

「OK、じゃあ右手でこれを持って」

ジョージは私にオールを委ねた。日光と潮風に晒されてつるつるしているその木材を掴むと、すでに風の力が加わっていて、しっかりとした手応えが感じられた。

「今は、そのまま真っ直ぐにしておいて。右に行きたいときは、左に舵を切る。左に行きたいときは、右だ」

自分がこの船を動かしているという感覚に、子供のようにワクワクしていた。
これこそ自分がやりたいと思っていたことではなかったか? 新しいことにチャレンジすること。知らない人と知り合うこと。見たことのない景色を見て、異なるアクセントの言葉を聞き、行ったことのない場所に行くこと――自分の力で。

「もう少し、左へ」

少し風が強まり、ジョージは私の右手の上に自分の左手を重ね、舵を左へ切った。大切な刻印を手の甲に押すような、苗に添え木を当てるような、大きくてどっしりとした、温かい手だった。

――こんなふうに、何の見返りもなく何かを教えてくれた人、私の人生に今までいただろうか。

日に焼けたジョージの高い鼻。その下の唇は、どこかいたずらっ子のように大きく横に開いていた。つられて、私も笑った。
4月、初秋の青い空の下を、サハラはゆっくりと進んで行った。

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