2-9: 羽を伸ばせない鳥
「それはやっぱり、直球で訊いてみるしかないんじゃないの」
知らないスポーツチームの結果に対するコメンテーターのようなリサの声が、使い捨てのプリペイド携帯の向こうから聞こえた。
「そうだよねえ」
シドニーでの数日間の出来事と、ジョージとの一件についての報告と連絡と相談を終えると、私はため息をついた。
「ま、せっかくオーストラリアにいるんだからさ。あんまりごちゃごちゃ考えずに、目の前にあるものを楽しめばいいんじゃないの? 時間勿体なくない?」
「それはまぁ、そうなんだけど」
「考えすぎだよ。男女のことなんてさ、考えてどうこうなるもんでもないと思うよ。ごめん、今から彼氏に会うから行かなきゃ」
「うん、ありがとう」
2時間先の未来で、過去2年間培って来た関係を20年後の将来に向けて進展させつつあるリサのアドバイスは現実的だった。2日後どこに泊まるかも決まっていない自分のあやふやさと引き比べて落ち込んでしまう。
彼女の言う通り、シドニーにいるこの貴重な時間をジョージだけに遣うつもりはなかった。ローカルのMeetupグループには今日いくつか登録したし、近所の図書館で開催されるイベントと、ボランティアが提供している無料のウォーキングツアーにも参加を申し込んだ。外部から来た人間に対しても入りやすく設計されているこのコミュニティとテクノロジーをありがたく思う。
ボタニカルガーデンのベンチからは、目の前に広がる海が望める。一日中、州立図書館で就職サイトを見たり履歴書を書いたりしていたせいで疲れ切った目に、波のきらめきはいささか強かった。なるべく水平線の方に意識を向け、自分の置かれた状況についてぼんやりと考える。
ジョージのことは異性としては意識していなかった。年齢は聞いていなかったが、少なく見積もってもふた回りは年上のはずだ。離婚して一人暮らしだとは聞いていたものの、彼が私に何を求めているのか、あるいは求めていないのか、この段階で訊くのは気まずいような気もした。あまり真面目に立ち入ったことを聞けるほどの関係でもないし、自意識過剰だと思われるのも嫌だった。
後ろで子供の歓声が上がり、振り返るとカラフルな風船を持った3~4歳くらいの女の子がかけて来た。誕生日パーティだろうか、背中に妖精のような羽までつけている。
——私もかつてあんな子だったはずなのに。
いつ、どこから私はあの自由さをなくしてしまったのだろう? 思春期、成人式、それとも就職してから? 自分の感情や思いを相手に正直にぶつけることができなくなってしまったのは、自分の心のままに行動できなくなってしまったのは、一体いつからだろう?
相手にどう思われるかと考えると、怖くて自分をさらけ出せなかった。どこかで線を引いて節度を守ることが正しいことのように思えた。それともどこかで、相手が自分の期待通りの人にはなり得ないと知っていたのだろうか?
ジョージと一緒にいると気楽で、のんびりできて、落ち着いた気持ちになれることが好きだった。それはとても新鮮な感覚で、けれどずっと昔日向ぼっこをしている時に感じたあたたかさにどこか似ていた。ジョージがどういう意図を抱いているのかはわからないが、何かを突き詰めることで、今までお互いの中に存在していた心地よさと自由さを壊してしまうことはいやだった。
目の前をアイビスが2羽、気位の高い守衛のように歩いていった。時折芝生から何かをつまんだり、羽をばたつかせたりしている。
——動物は素直でいいよなぁ。
全く知らない国で生きていくと言うことは、自分の動物的な嗅覚を信じ、少しずつ足がかりを作ることに近い。生きのびる本能とでも言おうか。けれど、私はどこかで自分のその本能に妙な自信を持っていた。信じるべき人、向かいたい方向、必要としている環境をイメージし見つけ出す力は、もしかしたら人間嫌いで用心深い性質だからこそ身についたサバイバルスキルなのかもしれない。本能を信じよう、素直になろう、と私は心に決めた。
——たぶん昨日ジョージは、若い女の子と楽しい一日を過ごして嬉しかったんだろう。
昨日のキス(とも呼べない何か)を、動物的な感覚で私はそう結論づけた。真面目な恋愛対象としてではなく、軽いお遊びのような衝動だったのだろう。あまり深く考えないほうがいいような気がした。
そして昨日のことなどまるでなかったかのように、ジョージからはディナーのお誘いが届いていた。パスタを作ってくれるらしい。自分でも困惑していたのは、私はそれを嫌だとは思っていないということだった。パスタは食べたいし、ジョージがどんな家に住んでいるかも見てみたかった。今日一日シドニーで過ごして自分が発見したあれやこれやを、ワインを飲みながらソファでゆっくり話せる相手が欲しかった。
そして私はどこかで、この先どうなるのか知りたいような気もしていた。国籍も年代も文化も異なるジョージと過ごす時間は、全てが新しいものばかりだった。なのに不思議と、ジョージという存在は、どこかで私がずっと欲しかった人だったように思えた。ひとつひとつのディテールではない。落ち着いていて頭が良く、思いやりがあり、活動的でユーモアのセンスがあるところは(そのジョークが必ずしも毎回面白くはないところまで含めて)好きな要素ではあったが、それ以上に何か磁石のように、彼のなかに私を惹きつけるものがあった。深さ、と言えばいいのだろうか。彼の見せる優しさや我慢強さ、思いやりや励ましの底に、何かしら触れられない傷が隠れている気がしていた。
——あの人は、私が持っていない何かを持っている気がする。それが何なのか私は知りたい。
アイビスが高く鳴き、羽をばたつかせて飛び立った。どこかでクッカバラが鳴いた。私は海をもう一度眺め、ゆっくりと立ち上がった。
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