2-6. ブーゲンビリア
板塀がずっとつづいている。
その角を曲がる時、ブーゲンビリアのひときわ濃いピンク色が、私の目を捉えた。
――なんて綺麗なんだろう。
陽光に照らされた花びらは、私たちが巻き起こす風にゆらゆらと揺れた。
私はジョージの背中にしがみついたまま、首を伸ばしてその花を目でおった。バイクで通り過ぎる速度と角度で、スローモーションのように、その花をくるりと180度捉え続ける。
空中に踊る、フューシャピンク。
そんなふうに、何かに強く心惹かれたことなど、これまでの日常であっただろうか。
目に入るもの何もかもを驚きと目新しさで捉えながら、私は通り過ぎてゆく風景を眺めていた。通学路を歩く子供の眼差し。もしジョージのバイクに乗っていなかったら、目的地にたどり着くまで半日かかってしまったに違いない。
そう、初めてバイクに乗せられた次の日、私は再びジョージのKawasaki ZR7の後部座席に跨っていた。
「車の少ない道を通るけれど、カーブやアップダウンは多いからしっかり捕まっていてね。10分くらいで着くよ」
そう言われたものの、バイクの上から見るEastern Suburbの風景はまるでドラマの中のように美しく、私はついこの間まで大阪の京橋にいた自分がなんだか場違いな気がしてならなかった。このエリアがシドニーの中でもとりわけ裕福な地域だと知ったのは数ヶ月後のことだ。
雑誌の表紙でしか見たことのないような洗練されたデザインの一軒家や、60年代ふうのレトロなれんが造りのアパートメントがそびえる。道路沿いにとめられているクルマも、SUVや欧州車が多い。
道路からは時折海が見える。どの家もシドニーハーバーに面したバルコニーがあって、あんなところからワインを飲めたら、どんな感じなんだろうと私は夢想した。
ジョージの広い背中につかまって、カーブに合わせてからだを左右に動かす。ダンスのステップを少しずつおぼえていくように、この街の道に身体を馴染ませ、呼吸を合わせていく。そういえば昔、王女様がべスパに乗ってローマを走り抜ける映画を見たことがあった。ヒロインには到底なれそうもないけれど、これはこれで自分らしいなと、ジョージにわからないようにふっと笑ってしまう。
住宅街の中に袋小路があり、そこにジョージはバイクを停めた。鉄パイプで囲われたゲートに”Seven Shillings Beach”という小さなプレートが付いている。
ジョージはヘルメットと古びたデッキシューズを脱ぎ、バイクのケースに入れた。スニーカーをビーチサンダルに履き替える私を見て、彼は言った。
「置いていったら? ビーチはすぐそこだよ」
見るとジョージは裸足でアスファルトの上に立っていた。私はためらったが、地元の人のアドバイスに従うべきと判断し、ビーチサンダルとスニーカーを両方ともバイクケースに仕舞った。
裸足でアスファルトの上を歩くのは妙な気分だった。陽に照らされた表面は熱く、日陰になっている部分は対照的にひんやりとしていた。瀟洒な住宅の間にある細い階段を下ると、そこはもうビーチだった。蹠に砂の感触が伝わる。細かく、さらさらとやわらかな、ひんやりとした砂だった。
最後に裸足で外を歩いたのはいつのことだろう?
ビーチはそれほど広くなく、波打ち際から住宅の板壁までは7mほどだ。近所に住んでいるらしい人たちがビーチチェアやタオルを持ち出して寝そべっている。ジョージは顔なじみらしく、彼らに軽く挨拶したり彼らの犬を撫でたりしながら、柵で囲われたエリアへ進んでいった。海の中に半月形にデッキが立てられており、その中で人々が泳いだり、ポントゥーンという大きな浮きに乗って休んだりしていた。
「シドニーハーバーはサメがいるからね。泳ぐにはこういう柵の中じゃないと危ないんだよ」
言いながら、ジョージは柵に立てかけられたたくさんのボートやカヤックの中から、赤と黄色のカヤックを運び出した。
「カヤックに乗ったことはある?」
「ガールスカウトでね」
「じゃ去年のことだね?」
ジョージは笑うと、私にオールとライフジャケットを手渡した。
「僕のボートはあそこだ。ここからだとどれかわかりづらいと思うけどね。沖合に島が見えるだろう? あの方向へまっすぐ進んでいけばいい。僕が後ろから行くから、近くまで来たら止まるように教えるよ。波はないし、もし疲れたら僕のカヤックで引っ張って行くこともできるから」
この人と一緒にいると何かしら毎日が冒険だなぁ、と私は笑いそうになった。星を見たり、雨の中バイクで疾走したり。今日はカヤックとボートらしい。
「OK。たぶん自分でやれると思うけど、溺れたら助けてね」
「もちろん。でもサメは僕より君の方を食べたがると思うけどね」
水に浮かんだカヤックはゆらゆらしていて、片足を乗せるとそのまま傾いて海へ落ちてしまいそうになる。まごまごしている私を見て、ジョージがカヤックを押さえてくれた。
「あまり足に体重をかけないで。お尻を乗っけるんだ」
12歳の頃よりはかなり贅肉が付いてしまった32歳のお尻は、多少カヤックを揺らしはしたものの、なんとか波の上におさまった。
「よし」
ジョージがぐい、とカヤックを押し出してくれ、私はそのスピードに乗って、オールを水に突き立てた。
ジョージの言った通り波は穏やかで、カヤックで進むのにそれほど労力は要しなかった。言われた通り、沖合いの島の方向を目指して進む。周りには大小さまざまなボートがあって、それらを眺めるのは楽しかった。どのボートもかっこいい(あるいは若干ダサい)名前をつけている。
ジョージのボートは全長5mほどの小さなヨットだった。シャンプーされていない小型犬を思わせる佇まいだったが、居心地は良さそうだった。波に合わせてマストがゆらゆらと揺れている。
波の上で待っていると、ジョージが追いついてきた。ヨットに近づくと、器用にオールをヨットの上に放り込み、甲板から垂れ下がっているステップに足を乗せてヨットに乗り込む。私が近づくと、ジョージはデッキから身を乗り出して言った。
「足をカヤックとヨットの間に挟まないように。慌てないで、でも素早く」
なかなか難しい注文だな、と思いながら私はなんとかバランスをとって立ち上がり、ヨットによじ登った。ジョージの手につかまり、柵を乗り越えてデッキに立つ。
「Yay! You’ve made it!!」
エベレスト登頂に成功したかのように大げさに褒めてくれるジョージの笑顔に、なんだかガールスカウトにもどった気分だった。大人になると褒めてもらえることはなかなかない。
「じゃあ、あとはゆっくりくつろいで。今お湯を沸かすよ」
ジョージはそういうと、船室のドアを開け、中へ入って行った。
「お茶かコーヒーどっちがいい?」
「お茶がいい」
私はベンチに腰掛け、あたりを眺めた。沖合を時折通り過ぎるフェリーの波が時々押し寄せてくるほかは、いたって静かな入り江だ。新旧大小さまざまなヨットやボートが、同じ方向を向いて波間にたゆたっている。大人しく命令を待つ忠実な犬のようだ。
――いま、私はシドニーの海の上にいるんだ。
一週間前にはオフィスのパソコンの前に座っていた。もしかしたら日本で最も普及しているかもしれない、青いクッションの凡庸なプラスチック製の椅子とグレーのデスク。文字通り、あの場所に私の席は、もうない。波に揺られているこの状態は、今の自分の不安定な状況にこれ以上ないくらいふさわしい居場所だと思った。
「お湯が沸くまで、これでも食べてて」
ジョージは船室から顔を出すと、私に小ぶりなオレンジを手渡した。
「ありがとう」
南半球の4月は、日本で言えば10月くらいの気候のはずだ。けれど太陽はまだ夏の終わり、いや夏の最中のようにさんさんと照っている。日焼けしないように薄手のパーカを羽織ってはいたけれど、半袖でも十分な気温だった。
オレンジに爪を立てて皮を剥く。爽やかな香気がふわりと広がった。滴る果汁をこぼさないように果肉にかぶりつく。みかんとの交雑品種なのだろう、酸味は少なく、濃い甘さだった。
ジョージは船室から上半身だけを出すと、私の様子を見て笑い、タオルを差し出した。
「やれやれ、とんだお姫様だ」
私も笑って受け取り、果汁でべたべたになった手をふいた。
「あなたがそのまま渡してきたんでしょ!」
「がっかりだよ、もっと上品なお姫様を案内したと思っていたのに」
ジョージは茶化しながら、私にプラスチックのマグカップを手渡した。
「お茶。熱いから気をつけてね」
「ありがとう」
「ビスケットも食べる?」
言うが早いか私の答えを待たず、ジョージは私の手にビスケットを握らせた。再びお礼をいいながら、この扱いはまるで5歳児だな、と笑ってしまう。甘やかされ過ぎているような気分ではあったが、それはそれで面白かった。
「あの、何か手伝おうか?」
「手伝ってくれるの? ありがとう。じゃあ大事な用事をお願いするよ。そこに座って、海を眺めていて」
ジョージは私の前に立つと、真面目な顔をして命令した。私は笑って首をふると、言われた通りおとなしくしていることにした。
おそらく、彼はいつもこうして友人や家族を招いているのだろう。少し悪い気もしたが、彼は純粋に私をもてなすことを楽しんでいるようだった。
日本で誰かのおもてなしを受けるときは、いつもどこか緊張していた。良いゲストでいなければ、気を遣わなければ、相手に好印象を与えなければ…。けれど、今この天気の良い初秋の午後に鄙びたヨットの上では、世話焼きおばさんのような彼の好意をそのまま受け取りたい気がした。
――誰かにこんな風に甘やかされることなんてないんだから、甘えてしまおう。
私はほんの少しの間だけ目を閉じ、何も考えないことにした。
ふっと目の前が暗くなり、目を開けるとジョージが私の頭に帽子を乗せたところだった。
「これで日焼けもしないでしょ。よし、じゃあ船を動かすからね。お茶をこぼして火傷しないように気をつけて」
ジョージはTシャツを脱ぐと、甲板に上がった。よく日に焼けた広い背中は、ウルルの土と同じ色をしていた。特別鍛えているようには見えないが、不健康な贅肉やたるみも見えない。引き締まったふくらはぎや太い腕は、健康そのものといった感じだった。日々こうしてヨットやカヤックに乗っている間に、自然とその身体が出来上がったのだろう。私は、青白くぶよぶよとした自分の太ももを見つめた。この脚はまだ、ストッキングとパンプスと地下鉄の窮屈さを覚えているみたいだ。
ジョージは手際よくブームに結ばれていた紐を外すと、マストに帆を張った。風を受けてボートはさっきよりも大きく揺れた。
(Cover Photo by David Clode)
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