思想と行動

今年に入り、哲学を少々勉強してみようという気になり、読み返したり、ギリシア哲学や中国の思想家を調べたりしている。

本当にかじっている程度ですが、2020年頃に「哲学を専攻した人間はmiddle ageになるころには給料が最も高い」という記事を発見し、衝撃が走りました。
次のリンクはそれとは違うのですが、Salary GrowthではPhilosophyは最上位であるとグラフに書かれています。

現在は特に陽明学を調べているのですが、なかなか現代の日本では聞かない名前です。
元々は朱子学からの派生の考えのようです。
朱子学が座学的なものである一方、陽明学はそれらを実践的に応用したもののです。

日本で陽明学がはやったのは4度ほどあり、その中には、大塩平八郎や吉田松陰、渋沢栄一も陽明学を特に学んだそうです。現代では、稲盛和夫などの経営者も学んでいるそうだ。
しかし、陽明学というものは教科書になかなか載らないもの。世にその名を知らぬ者は多い。私も知らずにいたが、たまたま出会った方からその名前を耳にした。
大河ドラマでも思想などは消され、行動だけに焦点があたる。

思想が語られない。
この理由を考えていたが、1つの私見では戦後にあると今は行き着いた。

尊皇攘夷、天皇思想など、ある広まった思想が世の中の大きなうねりを生む。
天皇を神と崇め、戦争に発展してしまったこともまた敗戦後の米国の占領下にあったことから思想を消す動き、教育があったのではないかを推測した。

公教育では宗教や政治について扇動を起こすようなことは法に抵触する。
それもあってか学問なのか思想なのか線引きが難しいものは排除されてきているのではないか。私立学校では仏教やキリスト教などの宗教教育は行うことはできるが、公立学校ではそのような教育、勉強はされてこない。
米国や欧米、諸外国とはそれは大きく異なるところである。

キリスト教は神に祈る。
神に行動を委ね、神の思いに叶う行動となるよう、祈る。
行動しようとするのはあくまでも自分の意志であり、それが神の思いに叶うようしてほしいと願う。
宗教観のない日本では、親の「考え」に沿うよう、学校・教員の「考え」に沿うような行動理念がつきまとい、自らの考えが生まれない。

日本に蔓延る他力本願は、自らは行動せず、他者が行うのを待つ。
他力本願の「他」を神に置き換え、自らの行動を褒めてほしい、認めてほしい、願いとしてほしいという考えに置き換わると、行動力は生まれるのではないか。それが消された日本は行動力を持った人間が増えない、そのように思うのである。

陽明学の「致良知」の考えは、自らの良知に従い行動すること。
「知行合一」の考えは、考えと行動が一致すること、考えることすらも行動であるから良知に従った考えを持つこと。

もっと深くこれを学んでいこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?