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紫の霧

 僕の町は紫の霧に覆われている。

 紫の霧が僕の町を覆うようになってから、この町に住んでいた人たちはまるっきり少なくなった。

 廃墟となった学校、工場、名前の存在しか知らなかった会社。

 駅の線路の上を遊び半分に歩き、横転したバスの上に登って空を見上げる。紫の細かい粒子は空を覆い隠し、眠たくなるような幻覚がうつうらうつらと浮かんでは消える。

 偉い人たちが僕たちの外出を禁止し、絶対にその霧を吸い込んではいけないと告げる。
 でも、偉い人たちは僕たちの町を封鎖した張本人だし、将来的には負の遺産として町の名前を登録しようと目論んでいる。そのために早く僕たちに――いまや生き残ったのは僕一人だったけれど――消えて欲しいと心では願っている。

 偉い人たちだけじゃない。この町以外の人たちは、僕のことをどう扱っていいのかわからないのだ。

 突如発生した紫の霧に呑み込まれた人々。

 紫の霧の正体も不明。感染するのかも不明。それでも、この紫の霧に呑み込まれた人々は、一ヶ月もしないで命を落としてきた。

 ときどき、この町の人の死体に行き当たる。
 自慢じゃないけど、僕はこの街の人々のことをよく知っている。死体は醜く腐り、肉が紫に変色している。

 不思議なことに、人の命はなくなっていくのに自然の産声が途絶えたことはない。
 カラスがよってたかって死体を嬲り、啄み、自分の巣へ持って行くのだ。あるいはサギの滑空。キジバトの郷愁を誘う鳴き声。彼らはこの町の変化に戸惑うことも、拒絶することもなくいつもどおりこの町に降り立つ。

 そんな鳥たちの様子を見ていると、僕の目がおかしくなっただけでこの町はいままでどおりの機能を保っているんじゃないかなんてことを考えてしまう。

 この人は――昔、僕を足蹴りにした人だった。
 僕にもしょうがない部分はあった。僕があまりに使えない人間だったから、たまたま倉庫内で二人きりになったときに足が出てしまったのだ。

 大人の一撃をまともに食らったのはそれが初めてだったから、ずいぶん後にも尾を引いた。口汚く罵ったり煙草の火を押しつける人もいたけれど、まともに蹴りを入れられたことはそれまでなかった。
 
 何より僕にとってキツかったのは、僕が少なからずその人のことを信頼していたことだった。僕が何かをしでかしても大抵は笑って許してくれた人だったから、僕はこの人といるときだけは安心できた。僕も誰かを頼っていいんだと思った矢先の出来事だった。

 きっとこの人も希望を持って行動した人なんだろう――。
 大抵の人たちは、家の中で死んでいったから。僕は否応なしに湧き上がる憐れみを持って、上着を外し、彼の顔にかぶせた。怒りは湧いてこなかった。憎しみもない。これまでにないくらい心が落ち着いていて、本来の静謐さが僕に宿り、心を温めてくれているようでもあった。僕は地べたに寝っ転がり、紫に同調するように目を瞑った。

 突然の出来事に発狂する人もいた。
 急激に犯罪が増え、悲鳴と恐怖の中に死んでいった人もいた。僕はそんな人たちの顔を一つひとつ思い浮かべ、僕に吐きつけられた言葉の一つひとつを思い出していった。

 僕がこんな風に寝っ転がれるのが紫の霧のおかげだと思うと、何だか不思議な気持ちがした。

 もしもこの霧が生じなかったら、僕はあの世界を生き延びていけたのだろうか。

 誰かを恨んだり憎んだりせず、まっとうな心を持ち続けることができたのだろうか。

 死んでやりたい、殺してやりたい、なんて思わずに。

 ――答えは出ている。でも、それを心から消し去ってしまおうと努めるだけの分別が、いまの僕にはある。

 紫の霧はあらゆるものを包んでいった。

 かつては血のように赤く、強靱だった屋根を。かつては堅牢な牢獄に思えた建物を。

 かつて僕が呑み込み、吐き出すことを強要された砂の上に。 

 あらゆる慈悲と、哀しみと、祈りを降り注いで。

 冷たいとは感じなかった。僕は一度も、それを忌避したりはしなかった。僕は急に眠たくなかったが、ひどく心地の良い眠気だった。眠りへの入口がこれほどまでに安らかだったのは、一度としてなかった。

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