1月30日 自己中な人ほど社会は生きやすい

僕はいつもそう思っている。

誰かを傷つけ、精神的に追い込むことができるような人が自分に対して同じようにシビアな視点を持てるはずがない。

よって、自分が批判されるまでは自分の思うようにやりたい放題するし、批判されたらされたで自分の愚かさや疾しさ、卑しさには目を向けられないので自分の行動を引き起こした「しょうがない」理由を見つけて自己保身を行う。

それは、この理不尽にまみれた社会ではとても健全なように思える。

人間はそれほどタフではない。

強い人間なんていうのは存在しない。

自分の存在をごまかして正当化するか、真っ直ぐに見つめたら見つめたで正当化できないので精神的に病んでしまうかだ。

やっかいなことに自己中な人に対する基本的な見方は、その自己中のシステムに巻き込まれていない、純粋な他者からの視点によるととても魅力的に映ってしまうことが多い。

自信を持ち、決断力を持っているからだ。

倫理的にアウトなことだってこの人たちにはできるんだみたいなこともある。

共感力の高い人からすると、自己中な人に対してとてつもない嫌悪感を抱くことになるのだが、彼らに対して倫理的な成長は期待しない方がいい。

なぜなら、彼らが他人に対する思いやりが少しでもあったなら、その行動はとらなかったはずだし、そこに罪悪感を抱いていたなら、同じことは繰り返さないはずで、そんな人が他人に批判されたとて根本的な共感力の欠如が改善されるわけがないからだ。

本当の共感力というのは自分が傷ついて初めて学べる機会を持つ。
同じ悲しみ、近しい苦しみを他人にさせたくないという気持ちが芽生えているからだ。

そして、傷ついた上で他人も同じような感性を持っているということを認識することも必要だ。

ここまでの話だと、自己中な人だけが気持ちよく生きて、内省力の高い人が辛い生き方を選択するようなことを論じてきた。

では、内省力の高い人はどうやって生きるべきか。

それは自己中な人と可能な限り距離を離し、同じ価値観を持つ人とできるだけ繋がることだと思う。

高校生以上にもなって誰かを簡単に傷つけるような人でそのスタンス改善することができた人を見たことがなく、その人たちに関わるだけ精神の消耗になると僕は思うからだ。

一方で同じ価値観の人と関わると、こんなに温かい人たちと関わることができるのだと心からその有り難みを感じることができる。

それが自分にとって大切な人を大切にする意味だと思う。

僕は誰かに優しくあれる人たちとしか友達にならなくなった。
そのせいで、僕の交友関係はそこまで広いものではなくなったけれど、素敵な人たちと関われる恵まれた人間関係を持つことができた。

僕ができるのは愛すべき人を愛すること、大切な人を大切に思う事、それだけだ。

そして、誰かを傷つけるような人にはこちらから石を投げるのではなく、関わりを持たないようにする事、心のうちでノーと唱える事が大事だと思う。

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