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OL会社休みますDAY2-さみしさについて考えた-

さみしさ、について考えた
さみしいという感情があることに気づいた
ニュージランドは、
今日も朝からいい天気でした
こんばんは、あかりです。

朝5:00から瞑想のクラスがあってんけど
なぜか5:30からと勘違いしていて
真っ暗な中
そもそも、
瞑想のクラスやってんのかなとか
思いながら
森の中を歩いてヨガする場所まで行った

暗いし星見えるし
5:30って全然、夜。

ついたらすでに始まってて
(そりゃそう)
おじいさん先生と
欧米からきたと思われる
おじさんが瞑想してた

で、参加して
呼吸法からスタートして
いやなんか独特!
独特〜〜〜ってなった

インドでヨガしてたから
確かに、呼吸法も大体イメージつくけど
それが別の国になると
あるいは人が変わると?
こういう感じになるの??ってなった

止まってやるイメージやったけど
結構立ち上がったり
動きながら呼吸するスタイルで

なんか、暗闇の中
謎のおじいさんとおじさんと、
3人で呼吸法やら瞑想やらしている空間が
あまりに異世界すぎて

すでにNZ生活のクライマックスを
迎えてしまった感が否めなかった

すごい異世界

その後、部屋に戻ったら朝焼けが見えて
次のヨガの時間までしばらく待って
またヨガに出かけた

明るいってだけで
本当に救われるものがあるよなと
しみじみと実感した

ちなみにこのヨガのクラスは
AMとPMを読み間違えていたから
これまた30分遅れた

でも間違えてるって知らんかったから
間違えた時間に行ったら、
今度は
音楽に乗りながら踊ってて

え、そういう感じ??
ウォーミングアップみたいな??
あーね、おっけーと思ったら
割と終盤の雰囲気出てきて

太陽礼拝して
ストレッチして
シャバーサナ(寝転がるやつ)して
時間ぴったりに終わった

その後先生と話して、
AMとPM間違えてたこと発覚
おかげで午後にもクラスがあることを
認識できた。
時間被ってるクラスあるけど
なんでやろうって思った時に
気づかないあたりが圧倒的弱点

これからも
人に助けられて生きていきたい気持ち
いや、これは
治せるように努力するよりも
できないということを知った上で
リスクヘッジができるように
人に確認したり、
突っ込んでもらえるような
助けてもらえるような人でいることに
注力したい。他力本願。

スーパーまで歩いて20分以上かかる
食べる物ないから、仕方なく歩いて
果物と量り売りの野菜買い込んで
パンも買って

帰ってきてご飯食べたら
眠たくなって
3時間昼寝した、びびる

なんか、余生感が強すぎて
余生に興味無くなった
現実世界とのちょうどいいバランスを
いつだって攻め続けたい
という気持ちになった

大学合格が決まってから
卒業するまでの間に
専業主婦的な生活をして
憧れてたけど
3日目で限界がきて
一生やらんって決めたのと
似たような感覚を思い出した

もちろん今のNZの生活は
言うことなしやけど
あんまりにも余生すぎる
これやったら一生現役で良いって
改めて思った

なんかこう
自由は、ある程度の縛りがある方が
完全に自由よりも楽しいみたいな
そういうのに近い感覚やと思う

さすがにブログ書くかってなって
ブログ書いて
なんか、時間割的行動とか
TODOを洗い出して、それをやるとか
そういう感覚自体がやっぱり好きと
改めて再認識した

時間割で生きるの
ほんまに好きなんよなー
まあ、想定外に3時間寝たりするけどな

だからこそ
時間割があると安心できるねんなあ
社会人やってるの
だいぶ向いてるんやろうなと思う
こういう点に関しては少なくとも。

午後のヨガのクラスは
時間通りに行ったけど
今度は先生が来んかったから
他の生徒の人も待ってたけど
まあいっかと思って
サウナに入った

謎のサウナ(笑)

昨日は使い方わからんかったけど
今日はうまく使えたらしく
ちゃんと汗かく温度にまで上がって
太陽が登ってる時間帯に
サウナに入って汗かけるって
最高〜〜となった

それから、ヨガのクラスに行って
今度は日没を感じながら
超ゆっくーーーりな
ストレッチのヨガ

部屋があったかくて
毎日これしたいって思った
部屋が程よく暖かいこと
太陽を感じられること
自然のリズムに抗わないこと
ゆっくりであること、が
めちゃくちゃ気持ちいい

どうやって生活に取り込もうかな
これはちょっと明日以降に
作戦を練ろうと思う

あーーー疲れたーーー
こんなにゆっくり生きていても
疲れた

太陽って
結構長い間出てるんやなって気づいた
いつも太陽が完全にのぼりきった後に起きるから
知らんかったけど
割と1日(というか太陽が出ている間)って
長い

知らんかったなー

あとは、そう
さみしさについて

さみしいという感情が
自分の中にあるということに気づいた

愛されたいとか
必要とされたいみたいなのとは
ちょっと別の感覚で

ただただ
繋がっていたいとか
なんか、さみしいっていう
そういう気持ち

でも、100%永遠で
確実なつながりなんてないし
とはいえ
心から大事と思える友達がいることも事実で
それはもちろんそうやけど

それでも、なんかさみしい
という気持ち
これのせいで
SNSを見ることで安心できたり
メッセージのやり取りがあると安心できたり
するんだなと思った

さみしい、が備わっているおかげで
一人では弱すぎて何もできない生物のくせに
ここまで地球上でのさばれているのかもしれない

でも同時に
それでいいのか?という気持ちもある
もっと一人で生きるということに対しての
安心感とか満足感とか
一人である状態に満たされている状態とか
そういうの、あったほうが良くない?とか

仮にさみしいとしても
SNSはごまかしにすぎないんじゃないかとか
本当の理想の状態ってなんなんだろうか

どうしても
今ある状態からしか
思考を進めづらいので
今の自分というところで考えてしまうけど

複数の依存できるコミュニティがあること
例えば、
家族、会社、趣味のコミュニティ2つくらい
地元の友達、大学の友達、みたいながあって
それらの中で、
自分が心に嘘をつく必要がなくて
生きられること

その上で、大好きと思える友達が
1人でもいたら、それは最高

そんな安心した生活と
一方で、突発的な出会いとを
味わいながら生きていけるとよさそう

で、それぞれのコミュニティと
どうかかわって、どう繋がっっていられると
1番いいのかな
これが多分難しくて
結局わかりやすいのが、
SNSってことになる気がしている

わがままやから
そういう大好きな人たちと
本気で大好きと思える時間を過ごして
その中で、
自分一人の時間を取れるように
バランスさせていくのがすき

どっちの過ごし方も
特に誰かと過ごす場合は
やっぱり心の底からいいって
思えるような過ごし方がしたい

いつもの結論に至りすぎている

前提を覆して考えるって
めっちゃ難しいなと思う

なんか、さみしいという気持ちを
ずっと抱えているのって
どうかと思うけど
それでも、どれだけ家族ができたり
子供ができたって
さみしいっていうのは
つきものなんだということを
忘れない人でいたい

目先の何かで
さみしさが紛れている状態を
変に過信して
さみしくないって
思うことの方が怖い気がしてきた

自然とつながったり
地球との一体感的なものを味わえば
さみしいとかさみしくないとか
そういう問題ではなくなりそうやけど

でもなんか
人間として生きる分に関しては
やはり、このさみしいという気持ちが
あるということ自体に
目をそらさずに
さみしいよねって
言いながら生きられるひとでありたい

は〜〜ねよ

ニュージーランドでも
ヨガの終わりには、なますてって言ってた
世界共通

なますて〜〜

https://suki2sunao2.com/newzealand-auckland-yoga-hostel/



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