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見えない日常 #10 木戸孝子(写真家)

 家族の親密な関係性を収めたシリーズ「Skinship」が、このところ欧米の数々の写真コンテストで高い評価を受けている写真家の木戸きど孝子たかこ氏。同作のテーマに至るきっかけとなったのは、彼女がニューヨークでの生活で思いがけず遭遇した〝逮捕〟だったーー。

前回〈Chapter 9〉はこちら


Chapter 10

 私たちを乗せた車は、マンハッタンの移民局のオフィスに着いた。指紋の採取や、様々な手続きの後、そこからそれぞれ別の移民局拘置所に連れて行かれた。別れる前に見たボーイフレンドは、重罪犯になってしまったせいで、危険な囚人が着せられる赤色の囚人服に着替えさせられていた。明るい色が妙に似合っていて、思わず笑顔になって手を振った。

 私が連れて行かれたのは、ニューヨーク州のとなりのニュージャージー州にあるハドソン・カウンティーという刑務所。普通の刑務所を、移民局の拘置所としても使っている。ライカーズアイランドもそうだったように、どうやら結局、拘置所も刑務所も同じなのだろう。

 でも遠くに連れて行かれなくて良かった。ここならニューヨークにいる弁護士も会いに来られる距離だ。移民局の弁護士・ジョナサンを雇っていたことが、アメリカ国内の移民局のジェイルを引き回されるのを防いだのだろうか。確かなことはわからないけれど。

 囚人服に着替えさせられ、写真を撮られ、ドクターのチェックを受け、その後に連れて行かれた場所は、外光も入り明るく、テーブルと椅子が並んでいた。「ここはカフェテリア?」と思ってしまった。2段ベッドも並んでいる。みんなで合宿するような場所だった。この広いスペースに閉じ込められているのだが、ライカーズアイランドのように狭い部屋に閉じ込められるよりだいぶマシだ。しかもライカーズよりずいぶん新しかったので、少しだけ気が楽になった。

 全部で40人から50人ほどの囚人がいた。私の場所は、2段ベッドの上の段に決まったが、狭いベッドで手すりも付いていない。下には誰もいなかったから、「私、寝相ねぞうが悪いから、落ちて死んでしまうかもしれない。お願いだから下の段にして!」と看守に頼み込んでなんとか替えてもらった。

Telephone, 2004

 3月10日にここに来たばかりなのに、12日の夜中にいきなり看守から「明日、移民局の法廷に行くから」と言われた。「ちょっと待って。今日弁護士と電話で話したけど、そんな事言ってなかった。今すぐ弁護士に電話させて」と頼んだけど、「時間外だからダメ」と言って電話をさせてくれない。

 次の日の早朝3時頃に看守に起こされた。ライカーズでもここでも、拘置所から法廷に行く時はいつもこんな時間に起こされる。そして寒い牢屋の中で何時間も延々と待たされてから、5分もかからないような法廷に立つのだ。そしてまた何時間も待たされた後、夜になってからやっと拘置所に戻って来る。

 私を起こした看守は「法廷に行くから準備して」と言う。「弁護士に電話させてよ」と頼んでも、また「時間外だからダメ」と電話させてもらえない。そこから手錠をされて、車で法廷に連れて行かれる。会った職員全員に、「私の弁護士は、今日法廷があるって知らないから、お願いだから電話をさせて」と頼んだ。でも、「知ってるはずだよ」とか「次に着いた場所で聞いてみな」とか、無責任な返事ばかり。

 結局、電話をさせてもらえないまま法廷に出た。弁護士のジョナサンの姿はない。弁護士が来ていない事を判事に伝えると、法廷は延期になってしまった。移民局の法廷で判決を出されてからでないと強制送還は行われない。法廷は3月28日に延期になった。次の週は、ふたりいるうちのひとりの判事がバケーションに行くから人手が足りない。それで私の法廷は2週間以上先延ばしにされたというわけだった。

 移民局の拘置所にいる囚人たちは、ほとんどがアメリカにビザなしで滞在していただけだ。あとは刑期が終わってから移民局に移され、強制送還を待つ人たちか、誤解や嘘の通報で逮捕された人たち。環境的にはライカーズよりもずいぶん平和に見えたけど、弁護士さえもアクセスするのが難しいという恐ろしい場所だった。弁護士が何度も移民局に電話をしても誰も出ない、ということも頻繁にあるらしい。ロジャーは「移民局の不正に対して戦うアメリカ人はほとんどいないんだ。なぜならば、それはアメリカ人への不正ではないからね」と言っていた。ロジャーは移民局の不正に声を上げる、数少ないアメリカ人弁護士のひとりだった。

Queensboro Plaza Station, 2004

 ここはin between――境目の世界。アメリカでもなければ、どこかの国でもない。だから、アメリカ社会のうたい文句の、人権も平等も正義もない。イギリス人、フランス人、ドイツ人、イタリア人なんかひとりもいなかった。他のヨーロッパの人もほとんどいない。ポーランド人がひとり。ルーマニア人がひとり。だいぶ後になって、ハンガリー人がひとり来ただけだった。南米の人、黒人、そしてアジア人が大部分を占める。差別が確かに存在していた。

 家族がアメリカ国内にいる囚人が多かった。「家族のもとに帰りたいから、自分の国に強制送還されたくない」という人は、何度も法廷に行き、それを主張する。だけど、判決はなかなか出されず、事態はいっこうに動かないので、アメリカに留まりたい人はここに何年もいることになる。すべての手続きが遅くて杜撰ずさん。日本で仕事をする時に大切だと聞いた、報告・連絡・相談(ほうれんそう)のようなものはまったく見えなかった。書類の間違いも日々絶えない。移民局の書類の間違いやシステムの不具合のせいで逮捕された人たちもいた。

 こんな話を聞いたこともある。移民局は、アメリカからメキシコに行くバスを国境付近で止めて、ワーキングビザなしでアメリカで働いていたメキシコ人たちを、かたっぱしから逮捕しているのだという。メキシコに帰ろうとしているのに、どうして逮捕する必要があるのかわからない。次から次に逮捕するので、移民局の法廷で扱うケースも増える一方。だからなかなか法廷の順番もまわってこない。

 名前を忘れてしまったけど、南米出身のおばちゃんの囚人がいた。彼女は、胸の皮膚に腫瘍のようなものができて、それがずっと治らず、ついには出血し始めて痛いという。乳がんではないかと心配していた。彼女と同じ南米出身の囚人友達らは毎日、看守に対して「彼女を病院に連れて行ってくれ、それがダメなら拘置所に診察に来るドクターに会わせてあげてよ」と真剣に訴えていた。でもその訴えはまったく聞き入れてもらえなかった。彼女はずっと、痛みと不安を抱えたまま。私がハドソン・カウンティーにいた間に、彼女が病院に連れて行ってもらったのを見なかった。

 ここで絶対に、大きな病気や怪我をしてはいけない。治療もしてもらえず、死を待つだけになってしまう。

Self-Portrait, 2007

 あまりの不条理や不公平を目の当たりにして、私は、それぞれの囚人がここにいる理由や、ここで起こったいろいろな出来事を、看守が見てもわからないように、日本語で書類の裏に書き留め始めた。鉛筆は滅多に手に入らない貴重品だった。誰かがいらなくなったものをもらい、短くなっても大事に使った。未だに、短くなった鉛筆がとても大切な気がして、捨てるには気が引ける。カメラがあったら写真を撮っただろう。カメラのない私は、短い鉛筆を手にとった。


〈Chapter 11〉に続く
6月3日(月)公開


木戸孝子(きど・たかこ)
1970年、高知県生まれ。 創価大学経済学部卒業後、プロラボ勤務を経てフリーランスフォトグラファーとして独立。2003年、ニューヨークのInternational Center of Photography卒業。 その後、ニューヨークで、白黒銀塩写真のプリンター、リタッチャー、高知新聞への連載などを行いながら、自身の作品制作、発表を行う。現在、高知県に在住し、国内外で作品を発表する。写真集に東日本大震災の被災地を撮影した『The Unseen』(2021年)。

〈近年の展覧会〉
「Arnold Newman Prize for New Directions in Photographic Portraiture 2023受賞者展」(The Griffin Museum of Photography/アメリカ・マサチューセッツ)
「LensCulture受賞者展」(Photo London・Somerset House/イギリス・ロンドン)
「ZUHAUSE NO.6(VONOVIA Award受賞者展)」(Sprengel Museum Hannover/ドイツ・ハノーファー)
「The Unseen(個展)」(多賀城市立図書館/宮城県、MARUTE ギャラリー/香川県)
「The Exhibition Lab Exhibition 2021(グループ展)」(Foley Gallery/アメリカ・ニューヨーク)

〈近年の受賞歴〉
「2023 Arnold Newman Prize」ファイナリスト
「2023 Daylight Photo Awards」優勝
「LensCulture Summer Open 2022」優勝
「VONOVIA Award fur Fotografie 2022」3位
「Women Photograph Project Grant」グラント受賞
「IMA next」テーマ「Touch」優勝
「Photolucida Critical Mass 2021」トップ50 Photographers


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