湖畔篆刻閑話 #2「書は人なり(書如其人)」和田廣幸
ヘッダー画像:節録 荃廬先生「西泠印社記」部分 2021年
私が初めて中国の地を訪れたのは、大学3年の1985年、年の瀬の時期のことでした。大学書道部の訪中団に参加して、8日間の日程で北京・桂林・上海の地を訪れたのです。
寒々とした北京の空港に降り立った瞬間、まず目に飛び込んできたのは、「北京」と大きく書かれた毛沢東の手になる真紅の文字でした。この瞬間、なぜかまざまざと現実の中国の姿を垣間見た思いがしました。専用のバスから眺める中国の街は、色とりどりの筆文字の看板で溢れ、「さすが漢字の国だ!」と感慨深く見入ったのを思い出します。その反面、簡体字での表記が、書を通じて慣れ親しんでいたこれまでの中国とは、どこか異なった印象を受けたのも事実です。
わずか8日間という日程ではありましたが、若き日のこうした経験は見るもの聞くもの全てが新鮮で、否応なしに自らの好奇心が掻き立てられたのは言うまでもありません。とりわけ生きた中国語と漢字との結びつきが、日本での訓読や書き下しによる漢文理解とはまるで違うことに驚くと同時に、どこか古臭く感じる漢字の羅列が、中国語で読むとまさに生命あるものとして、躍動しているように感じられたのです。よって書や篆刻を学ぶ以前に、そのベースとなる中国語を学ばなければならないと強烈に痛感したのでした。
この自身初めての訪中での体験が、後の自分の方向性を決める大きな役割を果たすことになるとは、若き日の自分には想像だに出来なかったのは言うまでもありません。
日本では毎年数多くの書展が全国各地で開催されています。全国規模の公募展をはじめ、社中展やグループ展、そして個展など、様々な展覧が開催され、今では私もお招きを受けて出品したり、参観したりする機会も少なくありません。しかし、いわゆる公募展には日本に戻って来てこのかた一度も足を運んだことがありません。
私も若い頃は誰もがそうであったように、思いのほか血気盛んだったようで、全国規模の公募展に出品しては、入賞・入選を積み重ねていました。各展覧会によって受賞する賞毎に点数が決められていて、その累積した点数が既定の点数に達すると、段階的に役職が上がっていくのが日本の書道界のシステムです。振り返れば若くして役を得て、周りからも一目置かれるようになり、何かとちやほやされて随分と有頂天になっていたのです。書がまるでスポーツの試合であるかのように、他者との勝負事であるかのように錯覚していたのかも知れません。
今から思えばまさに「井の中の蛙」で、書や篆刻がいかなるものかさえ理解していなかったがゆえの成せる業としか言いようがありません。中国語に「无知者无畏(wú zhī zhě wú wèi)」(物事を知らない人は怖いもの知らず)という言葉があります。まさにそうであった自身の若き頃を思い返すたびに、恥ずかしさと恐ろしさのあまり今でもジワリと脂汗が滲んできます。
こうした思いもあってか、公募展には毒気付いていた昔の自分を見るようでついつい足が遠のいてしまうのです。
私の書に対する考えも今に至るまでに、さまざまな紆余曲折を経ながら随分と変化してきました。中国に渡った初めの頃は、依然として現代の日本の書の方が線にキレがあって、見栄えも良く現代的だと勝手に思い込んでいたのです。しかし、書を生み、そしてこれを育んだ中国の大地で長く生活するにつれ、ただの表面的な物の捉え方やその理解が、何と陳腐な考えであったのかを思い知らされるようになるのです。
現存する最古の文字資料である甲骨文字から始まり、金文と呼ばれる古代青銅器の銘文、そして泰山刻石や琅琊台刻石に代表される秦代の篆書、漢の碑刻や様々な刻石、そして肉筆の竹簡や帛書をはじめ、歴代の書の名品の数々。そして古璽や古銅印、封泥、さらに時代を下って明末以降の篆刻の名品の数々。こうした数千年にわたり連綿と続く悠久なる歴史によって生み出された名品を自身のこの眼で実見し、時に手に取って触れ親しむ中で、「書とは何か」「篆刻とは何か」という根本的な部分を深く考えるようになったのです。
また、これらを取り巻く歴史や思想、そして文学や絵画をはじめとした美術、工芸など、書や篆刻を取り巻く周辺にまでをも視野に入れて、可能な限り多方面的、総合的、そして俯瞰的に物事を捉えていくようになっていきました。
とりわけ周囲の学識ある中国人との討論や対話の中で得られた、多くの示唆や知識も加味されていったのは言うまでもありません。ほんの一例ですが、青銅器の研究者とお話しした際のこと。
私たちが思い描く青銅器といえば、博物館などに展示してあるあの〝ブロンズ〟色をした器物ですが、「二千数百年のその昔、実際に用いられたときは黄金色にまばゆいばかりに輝くものだったんだよ」と。また印学の研究者との話の中では、「この篆刻家の印刀は、時計のゼンマイの鋼を加工して作った自作の印刀を用いたので、他と違って際立って線がくっきりとしているんだよ」など、目から鱗が落ちるような話は枚挙にいとまがありません。
こうしたことは、あらためて考えてみれば至極当然のことではあっても、そうした視点をもって見るのか否かの違いは、その理解に深く関わってくるのです。実にこうした積み重ねをこの四半世紀の間、弛むことなく続けてきたのですから、少なからず書や篆刻に対する見識を深められたのではと思っています。
今回のタイトルにかかげた「書は人なり(書如其人)」ですが、この語の元はといえば、後漢の許慎の『説文解字・序』「著於竹帛謂之書、書者、如也。(竹帛に著す 之を書と謂う。書なる者は如なり)」であり、また同じく後漢の揚雄(楊雄)の残した『揚子法言・問神巻第五』の「書、心画也(書は心画なり)」にあります。
原義はともあれ、その後2000年近くの時を経る中で、書に対する諸々の概念とも結びつきながら、今、私たちが用いる「書は人なり(書如其人)」という言葉に収斂されていったのです。
「書は人なり」というこの短い言葉には、ただ単に「書には、書き手の人となりが如実にあらわれる」ということだけでなく、「より良い書を望むのであれば、書き手自身の人間性や人格、そして心をも磨いていかなければならない」という、叱咤激励の思いも含まれているように私は思うのです。また、先に述べた自身の経験から、「書は人と比べて上手い下手というのではなく、昨日の自分の書と比較してどうなのか、そこに進歩はあるのか」、すなわち「書の目的は競争ではなく、自身の理想の姿の具現にあるのではないか」と考えるようになったのです。
さて、無限なる淘汰を経て、なお現存している地球上のありとあらゆるものには、そこに私たちが考えも及ばないような存在意義や、何かしらの価値、そして使命があるのだと思うのです。それは書や篆刻といったものも含まれ、現今の日本では、随分と押しやられぎみではありますが、私を含め読者の中には、これから書や篆刻に崇高なる志をもって励まれる方もいらっしゃると思います。
そうであるならば、こうした書や篆刻の奥底に流れる意を汲み取り、今以上に一歩も二歩も深く探求、思考することが何よりも大切ではないでしょうか。ただ単に物事の表面、上っ面を撫でるのではなく、より本質に肉薄した何かを表現できないかと考えるのです。耳目を喜ばす書や篆刻もあって然り。更に耳目から入って人間の魂まで揺さぶり、突き動かすことができるなら、私はそうした方向性を志向したいと思うのです。
「書は人なり」なのですが、実際何をどうすればこのように変化するといった科学的な方法は、現在もそしてこれからも見出されることはないでしょう。ただし、森羅万象より導かれた何かが、自らの生み出す作品の中に、その片鱗でも宿るのであれば、高き理想をかかげて、それを貪欲に求めていきたいと私は切に願うのです。
〈次回は5月20日(月)公開予定〉