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法華経の風景 #9「聖徳太子ゆかりの地」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー画像:斑鳩いかるが町・片野池

 写真家・宍戸ししど清孝きよたかとライター・菅井すがい理恵りえが日本各地のきょうにかかわりのある土地を巡る連載。第9回は奈良と大阪で聖徳しょうとく太子たいしゆかりの地を訪れた。

 私たちは夜明けを待っていた。池のなかで白い鳥が1歩を踏み出す。薄明りの空を映した水面に小さな波が立ち、水紋が幾重にも広がっていった。

 現存する日本最古の書跡は、聖徳太子直筆の『法華義疏ほっけぎしょ』だとされる。法華経について解説した全4巻の巻物で、皇室に献上されるまで長く法隆寺ほうりゅうじに伝えられてきた。直筆か否かについては賛否両論あるものの、約1400年前に制作された書跡であることについては、ほぼ確定している。豪華な装丁でもなければ、著者の署名も入っていない。それでも、当時の姿がほぼそのまま残されていることに、太子への計り知れない敬意を感じる。

 山の稜線から太陽が顔を出す寸前、空と池が真っ赤に染まった。聖徳太子は日本仏教の夜明けのなかで人生を送ることになる。

四天王寺

 高さ300メートルのビル「あべのハルカス」の展望台から、大阪平野の中央部に位置する上町うえまち台地を見下ろすと、聖徳太子が建立した七大寺のひとつ、四天王寺してんのうじが見える。

 574年、聖徳太子は用明ようめい天皇と穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこの子として生まれた。16歳の時、ずいの文帝・楊堅ようけんが約300年ぶりに中国を統一。楊堅は、法華経を拠りどころとする天台教学を確立した天台大師・智顗ちぎに協力を求め、仏教の復興に力を注いだ。

 今、四天王寺と大阪湾の間は10キロほど離れているが、当時の海岸線はかなり内陸まで入り込んでいたらしい。上町台地は、北・東・西の三方を海に囲まれた半島のようで、その北端近くにあったと推測される難波津なにわのつは海路の要港だった。

四天王寺

 いつの間にか周囲は賑やかな韓国語で溢れていた。どうやら高校生の団体旅行らしい。子どもと大人の狭間の頃。〝かまびすしい〟ほどのエネルギーは伸びしろの証でもある。

 百済くだらから仏教が公的に伝来したのは、聖徳太子の祖父である欽明きんめい天皇の時代。「異国の神」である仏教はたびたび弾圧されたが、病に倒れた父の用明天皇は験力げんりきを期待して仏教に帰依する。すると、天皇が仏教を受け入れることに対し、推進派の蘇我馬子そがのうまこと反対派の物部守屋もののべのもりやの対立が激化。蘇我氏は物部氏を討ち、物部氏は没落する。

 用明天皇の没後、馬子は崇峻すしゅん天皇を擁立するが、まもなく対立し、暗殺してしまう。その動揺を収めるために即位したのが、太子の叔母である推古すいこ天皇だった。「皇太子」として仏教興隆の役目を担う聖徳太子は、大阪に四天王寺を建立した。

 地上に下りて四天王寺の南門からまっすぐ伸びる道に立つと、門の真上に塔が見えた。南北に中門と塔、金堂が一直線に並ぶ伽藍がらん配置は、6世紀頃の百済の寺院と同じ。当時の仏教は大陸で生まれた最新の文化だった。

大和川・新御幸橋

 推古天皇の時代、途絶えていた日本と中国との国交が120年ぶりに再開している。隋の使節団は、難波津から大和やまと川を通り、飛鳥あすかに向かったという。強大な隋と対等な立場で国交を結ぶためには、倭国がそれに値する国だと使節団に認めてもらう必要があった。

 推古天皇の小墾田宮おはりだのみや、聖徳太子の斑鳩宮、法隆寺の前身である斑鳩寺は、ひとつの意図をもって造営された可能性が指摘されている。小野妹子おののいもこを大使とする遣隋使が派遣されたのは、3つの建物が完成してまもなくのこと。その翌年、隋の使節・裴世清はいせいせいらが来日すると、一行は難波津で四天王寺を目にし、その途上、船上から斑鳩宮と斑鳩寺が並び立つ様子を眺めながら、飛鳥の小墾田宮に着いた。

 四天王寺と斑鳩寺は最新の百済様式の寺であり、天皇の住まいである小墾田宮は中国の宮殿のよう。盛大な外交儀礼で迎えられながら、隋の使節団は倭国を「対等な立場で国交を結ぶべき相手」だと思っただろうか。

法隆寺・南大門

 法隆寺の南大門前の広場では、様々な人々が交差する。歴史好きな年配のグループ、学校帰りの中学生……。特撮ヒーローのフィギュアを手にした男性は、南大門を背景にポーズを付けた〝ヒーロー〟を撮影すると、ロードバイクに跨って颯爽と去って行った。

 聖徳太子は高句麗こうくりの僧である慧慈えじを師に仏教を学び、国づくりに生かそうとした。『法華義疏』のなかには、法華経の「安楽行品あんらくぎょうほん」の「つね坐禅ざぜんこのみて、しずかなるところりて、の心を修摂しゅうしょうせよ」に対し、「常に坐することを好むしょう(小)じょう禅師ぜんじ親近しんきんせざれ」と独自の解釈を記し、人々のなかで法華経を広めるべきだと説いている。

 誰もが平等に救済されることを目指す太子の姿勢は、以後の朝廷にも引き継がれていく。

法隆寺一丁目

 法隆寺の周囲を歩いていると、空地の前に「発掘調査中につき立ち入り禁止」の看板を見つけた。店先で柿を剥いていた店主にたずねると「このあたりでは建てる前に発掘調査をしている」という。「若草わかくさ伽藍跡」と伝わる斑鳩寺は、670年の火災で焼失し、今も調査が続いている。

『日本書紀』には、聖徳太子が31歳の時、自ら「十七条憲法」を起草したことが記されている。驚くことに、「仏教をあつく信仰すること(第二条)」が「天皇の命令に従うこと(第三条)」よりも先に置かれていた。約80年後の大宝律令たいほうりつりょうのなかで、僧尼そうにを朝廷の管理下に置く僧尼令が規定されたことを思うと、聖徳太子の生きた時代がいかに仏教を尊重していたのか、垣間見えて興味深い。

 発掘調査中の空地の住所は「法隆寺一丁目」。「このへんも若草伽藍だよ」という店主の話を聞きながら、仏教が染み込む土地の風情を感じる。正岡まさおか子規しきの「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を思い出しながら、店主お手製の吊るし柿を食べてみると、驚くほど甘かった。

飛鳥宮跡

 622年、聖徳太子は49歳で亡くなる。その後、嫡子の山背大兄王やましろのおおえのおうは、蘇我入鹿そがのいるかに急襲され、斑鳩寺で一族とともに自害した。その2年後の645年、今度は入鹿が飛鳥板蓋宮いたぶきのみや中大兄皇子なかのおおえのおうじ(のちの天智てんじ天皇)らに討ち取られる。父の蝦夷えみしも自害し、蘇我氏は一気に没落。海を隔てた中国でも、すでに隋は滅び、とうの時代になっていた。 

『日本書紀』によると、606年、聖徳太子は岡本宮おかもとのみやで推古天皇に法華経を講じている。『法華義疏』と同時期に書かれた『勝鬘経義疏しょうまんきょうぎしょ』は、在家の女性信者が主人公。聖徳太子にとって、仏教の主役は出家した僧や尼ではなく、女性も含めた一般の人たちだった。

 奈良時代、聖武しょうむ天皇の妻である光明皇后こうみょうこうごうをはじめ、朝廷の女性たちは聖徳太子を篤く信仰し、法隆寺東院の造営を積極的に進めたと言われる。かつて岡本宮があったと伝えられる法起ほっき寺の近くでは、一面に咲いたコスモスが風に揺れていた。一族が絶えたにも関わらず、斑鳩では長い年月をかけて、一族に縁する寺が再建されている。

法起寺


〈次回は1月22日(月)公開予定〉


【参考文献】
古谷正覚・千田稔・石川知彦・中村秀樹『たずねる・わかる 聖徳太子』淡交社
瀧音能之『聖徳太子に秘められた古寺・伝説の謎』(ウェッジ)
花山信勝校訳『法華義疏(下)』(岩波書店)
東野治之『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波書店)

宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。

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