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湖畔篆刻閑話 #5「物は常に好む所に聚まる」和田廣幸

ヘッダー画像:漢代の文字せん(拓)部分
運甓斎うんぺきさい所蔵

四半世紀にわたる中国での暮らしを経て、今は琵琶湖畔で暮らす篆刻家・書家の和田わだ廣幸ひろゆきさんが綴る随筆。第5回は、90年代から書画をはじめ、封泥ふうでいや古銅印といった貴重な文物を蒐集しゅうしゅうしてきた和田さんのコレクターとしての歩みを振り返ります。


 あれは確か昨年の11月のことでした。何の前触れもなく、何と小学校時代の友人から突然手紙が届いたのです。私が日々の出来事をSNS上にアップしているのを偶然見たということで、わざわざ連絡先まで調べて書き送ってくれたのです。小学校の卒業が昭和52年(1977年)の3月ですから、実に47年ぶりのやりとりということになります。

 3枚の便箋には、懐かしい少年の頃の思い出がびっしりと書き綴られていました。そこには「そんなこと、あったかな?」と思うようなもう一人の少年時代の自分の姿が、友達の視線を通じて書き記されていました。

 小学生の頃の私は兄の影響もあったのか、思いのほか歴史が好きだったようで、とりわけ古代の縄文式土器の美しさに心奪われていました。あの燃え盛る炎を写しとったかのような火焔型土器は、少年ながらに古代縄文文化に対する歴史ロマンを掻き立てられたものでした。友人の手紙にも皆で鎌倉に行ったことや、一緒に土器作りをしたこと等が綴られていました。

 私が生まれ育った横浜は、当時はまだ雑木林なども点在しており、夏にはクワガタなどを採りに行ったり、サワガニやザリガニを釣りに行ったりした記憶があります。都会と呼ばれながらも、まだ少しは自然が残っていたのです。近隣には国指定の縄文時代から古墳時代にかけての集合集落の史跡があり、小学2年生の時の遠足はこの史跡公園で、そこで撮ったクラスの集合写真が残っています。

 放課後の雨上がりの日には、時に友達を誘って土器拾いに出かけたのも懐かしい思い出です。史跡の周囲は保護のためか建物が建てられないようで、周囲は一面の畑が広がっていました。雨上がりには土の中に隠れていた貝殻片や土器片が雨に洗われ、土の表面に浮き上がるように顔を出すのです。雨上がりの午後の太陽に照らされ、一斉にキラキラと眩いばかりに輝くさまは、少年の頃のあの興奮とともに今でも鮮やかに脳裏に蘇ってきます。

『運甓斎新獲臨湽漢封泥』(2006年)より

 北京に留学した1994年、私が先ず足を向けたのは故宮や頤和園、はたまた万里の長城といった世界遺産ではなく、市の中心部・和平門外に東西に延びる琉璃厂(Liúlíchǎng:しょう。文房四宝や古玩こがんの店が集中する北京を代表する文化街)でした。

 ここには300年来の歴史を有する老字号(lǎozìhào:歴史と文化のある老舗)の「栄宝斎えいほうさい」をはじめ、多くの文房四宝を商う店や書画骨董を扱う店が集中しています。もちろん貧しい留学生ではありましたが、常に何か良い書画や面白いものはないかと路地の隅々にいたるまで徘徊したものです。

 まだ北京の四環路さえなかった当時でしたが、何となく経済の上向き傾向が肌で感じられる――そんな雰囲気が街には漂っていました。その後21世紀に入る頃には首都・北京の街に新たな高層建築が建つようになり、今ではおなじみの高铁(gāotiě:高速鉄道・中国式新幹線)も徐々に敷設、延伸されるのと同時に、高速道路の新たな建設、住宅地の開発など、いよいよ目に見える形で急速にインフラの整備が行われるようになっていくのです。

 もちろんこうした波は北京や上海といった都市部だけではなく地方にも急速に広がり、大規模工事に伴って土中から掘り起こされた様々な文物が古玩市場に出回るようになったのです。戦国の古陶文ことうぶん、秦漢の封泥、未央宮びおうきゅう出土の骨簽こっせん、漢や晋の文字塼、そして古銅印等、書や篆刻に直接または間接的に関係する大変貴重な文字資料が次々と私の手元に集まってくるようになりました。振り返れば、少年時代のあの興奮が再び降臨したかのような、熱に浮かされた時期でもありました。

 19世紀末、あの甲骨文字が発見された端緒は、北京の薬舗で売られていた「龍骨」と呼ばれる漢方薬にあると言われています。時の国子監こくしかん祭主・王懿栄おういえい(1845-1900)とその幕客ばくきゃくであった劉鶚りゅうがく(1857-1909)がこの骨片に記号のような、文字のような痕跡があるのを発見したのが、この世紀の大発見の始まりだったのです。これに似たようなことが、まさか自分の身に起こるとは夢想だにしていませんでした。

筆者所蔵の封泥の一部
封泥の拓本をとる

 義和団事件に伴う八カ国連合軍の北京入城(1900年)の際に、井戸に身を投げて殉死した王懿栄の後を受け、劉鶚が甲骨文に関する最初の著録である『鉄雲蔵亀』を刊行したのが光緒29年(1903年)。彼はその後、甲骨だけではなく所蔵の印を集めた『鉄雲蔵印』、陶文を輯した『鉄雲蔵陶』、青銅器をまとめた『抱残守缺斎蔵器目』、古銭を編じた『鉄雲蔵泉』を、陸続と刊行します。

 私もこうした歴史上の先人に倣い、次々と集まる資料を鑑別、精選、整理し、原器原拓という形で少部数ではありましたが、『運甓斎所収金石録』と題し、第6集まで刊行しました。

 ちなみに秦封泥や新出の漢封泥は90年代半ば以降に出土し、初めは北京の古玩市場に出回りました。私がいち早くこうした文物に遭遇できたのも、飽きもせずに毎週のように通い詰めていたからこそだったのです。こうして培った経験をもとにその後、徐々にその範囲も拡大し、他の収蔵家の蔵品の著録や刊行を企画・編集するなどして現在に至っています。直近のことですが、本年3月、コロナ期間中に採拓した封泥拓本集『匋鉨室蔵古封泥輯』が刊行されました。

 一連のこうした実際の作業を通じ、書物では得ることのできない、実に多くのことを学ぶことができたと思っています。先ず挙げられるのは何と言っても鑑識眼の向上です。蒐集の過程では物の真贋が確かでなければなりません。そのためにはこれら文物に関する豊富な知識が必要ですし、物を見抜く力を養う必要があります。すなわち一瞬にして判断が下せるような鋭い感覚が必要なのです。五感の全てを駆使したこうした鑑別はそれだけで一つの学問と言えるほど奥が深いと言えるでしょう。

 そして他の研究者や収蔵家との切磋琢磨も欠かせません。加えて題簽だいせん題跋だいばつ、賛や序文の作文から書写に関する知識や理解、鈐印けんいんや拓の技術向上等、数え上げればきりがありません。俯瞰的に見れば、書画篆刻のベースになる金石学全般に関する経緯や歴史をも学ぶことができたのです。このような経験を通して学んだ全てが、現在の私の創作におけるバックボーンになっているのです。

「天造地設」 2024年6月

「物は常に好む所にあつまる(物常聚於所好)」(欧陽脩おうようしゅう『集古録・自序』)という言葉がありますが、こうして蒐集した文物、合わせて509件を、2018年、私が日本へ帰国する際に一括して寄贈することにしました。散逸を免れたこれらは、今秋開館予定の「陳介祺ちんかいき金石博物館」にて陳列・展示される運びで、文物の良き落ち着き先が得られ、旧蔵者としてほっと胸をなで下ろしているところです。

 骨董趣味に溺れ、志を失ってしまうことを「玩物がんぶつ喪志そうし」といいますが、「収集のための収集」にならないよう、これまで常に自分自身に言い聞かせてきたつもりです。というのも近年の中国の凄まじい経済成長のもと、こうしたものまでもが高騰し、古玩市場で目の飛び出るような価格で売買されるようになったからです。
 いずれにしても、前述の王懿栄や劉鶚にも似た、文物との邂逅を通しての言葉では表しようのないあの興奮を享受できたことは、私の人生における得難き宝と言えるでしょう。

 さて、このnoteの読者の中には、書や篆刻を志す若い世代の方々も多いと伺っています。私のこうしたささやかな経験も、若い方々には少なからず参考になるのではないでしょうか。自身で作品集を編集したり、原鈐げんけんの印譜集を制作したりすれば、これまで思ってもみなかった多くの知らないことにぶつかることでしょう。ひとたび行動を起こすことによって、新たな書や篆刻の世界――ただ書くだけ、ただ刻すと言うだけでは語れない、今までに見たことも聞いたこともないような深奥な本来の世界――が眼前に広がってくるに違いありません。

「温故知新(故きを温め新しきを知る)」とは、まさにこうした勉学の過程を表した言葉だと私は思うのです。古典、伝統、歴史といった過去の先人たちの遺産をあるがままに伝承し、その重圧に耐え屈することなく、更にそれを発展・昇華させてゆく。そんなことができないだろうかと日々考えているところです。


〈次回は8月12日(月)公開予定〉

和田廣幸(わだ・ひろゆき)1964年、神奈川県生まれ。篆刻家、書家。あざな大卿たいけい。少年期に書と篆刻に魅了され、1994年、中国語を本格的に学ぶため北京の清華大学に留学。以来、北京で書法、篆刻に関する研究を重ねながら、国内外で数多くの作品を発表している。2018年から琵琶湖畔の古民家に居を移し、運甓齋うんぺきさい主、窮邃きゅうすい書屋しょおく主人と名乗り、日々制作に励む。2023年には台湾で自身初の個展「食金石力・養草木心―和田大卿書法篆刻展」を開催。また、書や篆刻に関する多くの文物を蒐集し、著作を出すなど書法・篆刻界をはじめ収蔵界でも広い人脈を築いてきた。2018年には、山東省濰坊いぼう市に自身の所蔵品509点を寄贈し、同市で新設される博物館にコレクションされる。
Instagram https://www.instagram.com/yunpizhai/

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