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法華経の風景 #6「岩手・花巻」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー画像:ぎんどろ公園

 写真家・宍戸ししど清孝きよたかとライター・菅井すがい理恵りえが日本各地のきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第6回は宮沢賢治ゆかりの岩手県花巻はなまき市を訪れた。


 あれは「デクノボー」だろう——。

 宮沢賢治で知られる岩手県花巻市。賢治が教えた花巻農学校の跡地は、市の文化会館や図書館、そして「ぎんどろ公園」になっている。公園には賢治の詩碑や『風の又三郎』の像もあって、芝生に寝転ぶ彫刻が、「雨ニモマケズ」に登場する「デクノボー」のように思えた。

 明治29(1896)年、賢治は岩手県稗貫ひえぬき郡花巻川口町(現在の花巻市豊沢町)に生まれた。生家は質店と古着商を営む裕福な商家で、5人兄弟の長男。父親の政次郎せいじろうは地元の名士だった。

ぎんどろ公園

 公園には「ギンドロ」が植えられている。葉の裏に白毛が密生する落葉高木。賢治は風に揺れる葉の輝きが好きだった。葉を手掛かりに「ギンドロ」を探すと、大木のまわりに若木を見つける。はっとして地面に膝をつくと、小指ほどの小さな「ギンドロ」が芽吹いていた。

 宮沢家は浄土真宗の門徒。幼い賢治は同居する伯母が唱える法話を自然と聞き覚え、一緒に仏前で暗誦していた。小学生の時には、父親が主催する仏教講習会にたびたび参加している。

 夕方、講習会の会場だった豊沢川沿いの大沢温泉に着く。夜の帳が下りるにつれて、川の対岸からは灯りのなかを行き交う人々の影が見えた。一方、背後の山に人の気配はなく、暗闇のなかに虫の音だけが響いていた。

大沢温泉

 賢治が「死」を意識した時、傍らには父親がいた。一度目は赤痢で入院した6歳の時。看病をしていた政次郎も感染し、生涯、胃腸の弱さに悩まされたという。

 負い目を感じる息子に対し、父親は常に味方であろうとした。「商人に学問はいらない」と反対する祖父を説得して盛岡中学校への進学を後押しし、家業を継ぐよう命じたものの鬱々とする賢治の様子をみかねて、盛岡高等農林学校の受験を許している。

 そんな父親を尊敬し、賢治は小学生の頃の作文で立派な質屋の商人になることを誓っている。

 しかし、当時の花巻は水害や冷夏などたび重なる災害で凶作が続き、貧しい暮らしを強いられる人々も多かった。その人々を相手に商売をして富を築く矛盾。賢治は次第に家業を嫌い、父親への複雑な思いを抱えることになる。

イギリス海岸

 賢治は盛岡高等農林学校への受験を許され、受験勉強に励んでいた18歳の頃、法華経と出合っている。父親の知人から渡された、島地しまじ大等だいとう編纂の『漢和大照妙法蓮華経』。最澄や道元、日蓮など仏教者10人の法話に加え、自己の刹那せつなの意識(一念)に宇宙の森羅万象が備わっていることを説く「一念三千」論など島地による解説文も添えられていた。

 特に、身体がふるえるほど驚喜したのは、『如来寿量品第十六』。釈尊は永遠の仏であり、今も人間と共に「この世」に存在し、ひとりひとりを深い慈愛で見守っている。

 家業や父親との狭間で悩み苦しむなか、法華経は今の自分を肯定してくれる唯一無二の存在。賢治は『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニのように、「どこにでも勝手にあるける」「ほんたうの天上へさへ行ける切符」を手に入れたのである。

 賢治の生家は昭和20(1945)年8月10日の花巻空襲で全焼し、当時の面影は残っていない。日清戦争の2年後に生まれた賢治は、多感な少年期を急激に近代化が進む日本で過ごす。産業資本主義の発展で生じた社会問題や労働問題。その影で多くの青年たちが「煩悶」し、彼らに呼応するように各宗派で革新的な仏教運動が起きていた。

宮沢賢治生家跡

 24歳の時、賢治は法華経と日蓮を信仰する新宗教「国柱会こくちゅうかい」に入会している。創設者は「日蓮主義」に基づく日本の「道義的世界統一」を目指した田中智学ちがく。賢治の同期には「関東満蒙領有計画」を立案し、満州事変を起こした石原いしわら莞爾かんじがいる。

 入会後、賢治は父親に浄土真宗から国柱会への改宗を迫った。当然、激しい口論になる。家業を手伝っていたものの、翌年には家出し、上野の国柱会館に向かっている。「なんでもしますから置いてください」と懇願する賢治に、理事の高知尾たかちお智耀ちようは親戚の元に身を寄せるように諭し、「法華文学ノ創作」を奨めたという。

 東京での生活を心配した政次郎は何度か小切手を送り、そのたびに送り返された。時には自ら上京し、一緒に旅行しながら考えを変えるよう言い聞かせもした。しかし、賢治は頑なだった。

 家出から7ヵ月後、賢治は妹トシの発病の知らせを受け、花巻に戻っている。トシは賢治に倣い、信仰を共にしていた。臨終の際、賢治は「南無妙法蓮華経」と声高に唱え、トシはうなずくようにして息を引き取っている。

 大正15(1926)年、賢治はのちの「羅須らす地人ちじん協会」を設立。若い農民たちに農業や肥料の講習を無償で行い、レコードコンサートを開催する。そして、周囲を開墾して畑を作った。

 賢治は「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と信じていた。しかし、理想とは裏腹に、現実の生活は想像以上に苦しく、父親の資金に頼ることも多かった。

下の畑

 かつて賢治が耕した畑の周囲を歩いていると、農作業をしていた人に話しかけられた。真っ黒に日に焼けて「そんなに賢治は畑仕事がうまくなかったからね」と話す顔をみながら「本統の農民」になりたかった賢治の心のうちを思った。

 昭和8(1933)年9月、病に臥せる賢治の容態は急変。政次郎は賢治の言葉を聞き取ろうとする。最後の願いは『国訳妙法蓮華経』1000冊の発行と配布だった。

雨ニモマケズ詩碑

「雨ニモマケズ」に登場する「デクノボー」は、人々から迫害されながらも、すべての人々に仏性があると信じ続けた法華経の「じょう不軽ふきょう菩薩ぼさつ」だと言われる。しかし、自分の利益を一切考えない行動は、むしろ幼少時代から親しんだ浄土真宗の自己犠牲願望に近いという研究者もいる。

 賢治が命名した「イギリス海岸」は、北上川と猿ヶ石川さるがいしがわが合流する西岸に位置する。2つの流れは大地を削り、合流地点に陸続きの小島を作り出していた。その断面は過去の地層が露わになり、地上には緑の木々が繁っている。その様が、様々な信仰の上に生きた賢治のようでもあり、賢治が思い焦がれ、父の政次郎が葛藤した法華経の「宇宙」のようでもあった。

 昭和26(1951)年、政次郎はかつての賢治の望みに応える形で、宮沢家を浄土真宗から日蓮宗に改宗している。

イギリス海岸


〈次回は10月23日(月)公開予定〉


【参考文献】
宮沢清六『兄のトランク』(筑摩書房、1991年)
松岡幹夫『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会、2015年)
今野勉『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社、2017年)
大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』(講談社、2019年)
北川前肇『NHKこころの時代 宗教・人生 宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる』(NHK出版、2023年)


宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。


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