見えない日常 #11 木戸孝子(写真家)
Chapter 11
ハドソン・カウンティーで、私に最初に話しかけてくれたのは、中国人と韓国人だった。同じ国の人かもしれないと思ったのだろう。やっぱり同じアジア人。こんな場所で会うと、とても仲間意識を感じた。アメリカ人の中には、日本人、中国人、韓国人は、それぞれの国の言葉で話してもコミュニケーションができると勘違いしている人も少なくない。
韓国系中国人のチンは、ほとんど英語が話せなかったから、漢字を書きながらなんとか会話をした。あんまりお互い話をしなくても、なんとなく友達だった。
ある時、話しているうちに、チンがエイリアンナンバー(外国人登録番号)も、何の書類も持っていないことに気がついた。逮捕された後にはいろいろ書類を渡されるし、それぞれを識別するための番号もあるはずだった。チンは英語が話せないから、移民局の職員に、私が彼女のエイリアンナンバーをたずねた。すると、彼女の名前は移民局の名簿に載っていなかった。でも職員は平気な顔で「きっと移民局は彼女がここにいることを知らなかったんだね。よくあることだよ。これから法廷に行く日を決めることになるね」と言うのだ。チンはここに連れて来られてもう1ヵ月。この1ヵ月は何だったのか。私は英語と漢字で何とか彼女に説明した。
グアンは中国では看護師だった。しばしば私のために、インスタントラーメンや、ご飯とサバとキャベツを混ぜた料理を作って、「お腹すいたでしょ、食べて」と世話を焼いてくれた。私の頭痛がひどい時には頭痛薬もくれた。
拘置所の中には、コミサリーと呼ばれる売店がある。囚人それぞれにアカウントがあって、そこに外の人が入金してくれると、注文書に記入して買い物ができる、というシステムだった。インスタントラーメンの値段は1袋77セント。当時、私が住んでいたクイーンズのディトマス・ブルバード駅の近所のスーパーでは、インスタントラーメンは5袋も入って1ドルくらいで売っていたから、かなりの割高だ。拘置所の食事は、ろくなものが出ないし量も少ない。結局、お腹を満たすために、みんなインスタントラーメンやライス、ツナなどのパックを買って料理して食べるのだ。
しかも、ラーメンを料理するためには、スティンガーと呼ばれる携帯用湯沸かし器も買わなければいけなかった。これが6.6ドルするけど、すぐに壊れる。そして海外の家族に電話するには、国際電話ができる専用のテレホンカードを27.5ドルで買う必要があった。それなのに、ここで掃除や調理などの仕事をする囚人たちの給料は、1日1ドルなのだそうだ。結局、拘置所の中なのに、あれこれとお金を落とさなければいけない仕組みが出来上がっていた。
フィリピン人のケネスは、看守から一目置かれているように見えた。ここに長くいるようで、いろいろな物を持っていた。ボーイフレンドに手紙を書いて、私がハドソン・カウンティーにいることを知らせたくて「日本の家族が私のアカウントに入金してくれたら必ず返すから、切手を1枚ちょうだい」とお願いした。彼女は渋々、切手をくれた。
買い物ができるようになってから、切手を彼女に返しに行った。ケネスは私が約束を守ったことをとても喜んで、それから私たちは仲良くなった。
「シャブを売ってて捕まったんだ。日本人だからシャブってわかるでしょ? シャブは日本から来たドラッグでフィリピンでは有名なんだよ」と、シャブの部分を日本語で言った。
「アメリカに来て結婚した夫がドラッグディーラーでね。彼を通して、どうやってドラッグを手に入れて、どうやって売り、どうやってその世界の人たちとコンタクトをとっていくか、全部学んだんだ。生活が大変で、家族を養っていくためにやったことだけど、結局こうして息子と離れ離れになってしまって……間違ってたよ」
息子はまだ6歳。ケネスは前年の7月にここに来た。彼女のケースは、まだ判決が出ていない刑事事件なのだが、どうやら外国人だから移民局の拘置所に入れられている、ということらしい。
ケネスは絵がとても上手だった。「アーティストなの?」と聞いたら、「違うよ。ここに来てから、自分がこんなにも上手に絵が描けるってわかったんだ」と言う。特徴をとらえて上手に似顔絵を描くので、看守が「囚人の顔は描いちゃだめだ」と言ってきたくらいだ。
「私の顔をこっそり描いてくれる? ここでの出来事を将来必ず本にするから、その時にケネスが書いてくれた絵を使いたい」とお願いすると、コミサリーの品物5ドル分を代金に快くOKしてくれた。次の日、さっそくケネスは絵を仕上げてくれた。
ハドソン・カウンティーの夜はにぎやかだった。南米の子たちは、土曜の夜になると、集まって大声で歌い踊った。時々私も参加して一緒に踊った。中国人のグアンとベトナム人のツーツーは、いつもドミノをしている。ナイジェリアで生まれて、生後2ヵ月からアメリカで育ったオマデリは何か叫んでいる。けんかしている人たちもいる。私はどんなにうるさい場所でも眠れるようになりそうだった。
3月24日――。日本から再び私たちのために飛んで来てくれた妹が、弁護士のジョナサンの車に乗って面会に来てくれた。妹とはガラス越しに電話で話すことしか許されなかった。
法廷で逮捕されたから、私たちのアパートメントは朝に出た時のままだった。いらないものは捨て、すでに送れるものは日本に送っていたけど、自分で持って帰るつもりだったカメラやパソコン、その他の貴重品は全部アパートメントにあった。妹が、ニューヨークの私たちの友達と一緒に、最後の片付けをし、鍵を不動産屋に返し、ふたり分の荷物を全部日本に持って帰ってくれた。こうやって助けてくれる家族や友人がいない人たちは、何もかもそのままで強制送還されていくのだ。
3月28日は法廷の日だった。予想通り午前3時頃に起こされて、拘置所の1階に下りたけど、まったく迎えが来ない。10時30分頃、部屋に戻された。どうなっているのか心配で、弁護士のジョナサンに電話した途端、やっと迎えが来て、11時30分過ぎに移民局の法廷のある場所に着いた。裏にある牢屋まで行くと、看守が「今来たの?」と聞く。「Yes」と答えると「あなたを迎えに行くのを忘れてたんだね」と言う。どこまでいい加減なんだ……。でも、とにかく間に合って良かった。
手錠をされて、腰に鎖を付けられたまま法廷に入ると、ジョナサンと妹に加えて、通訳までいた。今まで何度も法廷に行ったけど、通訳がいたのはこの1回きり。必要だと思うのであれば、全部通訳をつけてもらいたい。判決は、強制送還と、アメリカへの20年間の入国禁止だった。ニューヨークの法廷で、3年間の入国禁止という判決を受けて釈放されたのに、移民局の法廷で20年になった。
法廷が終わってから妹と少し話すことができた。手錠と鎖を見て、辛そうな顔をするから、「大丈夫で!」と伝えた。実際、私にはあまり気にならなかった。なんとなくすべてがバカバカしく、逮捕ごっこや裁判ごっこをしているようにしか思えなかった。
ハドソン・カウンティーに戻ったのは夜の8時過ぎ。夕食の時間はとっくに終わっていたけど、トリニダード・トバゴ出身のマーバが、夕食のトレイとジュースを私のためにとっておいてくれた。
〈Chapter 12〉に続く
7月1日(月)公開
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