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法華経の風景 #3 「比叡山延暦寺」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー写真:根本中堂

 写真家・宍戸清孝ししどきよたかとライター・菅井理恵すがいりえが日本各地の法華経ほけきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第3回は比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじを訪れた。
※ 企画の詳しい趣旨は、予告記事の後半部分をご覧ください。

 たに峠にあるゲートから、比叡山ドライブウェイに入ると、一層、山は深くなった。

 滋賀と京都にまたがる比叡山は2つの山からなる双耳峰そうじほう。市街地からわずか数十分しか離れていないのに、沿道の木々の向こうには人の侵入を容易に認めない自然の掟を感じた。

 785年、20歳の最澄さいちょうは、安定した将来を捨て、突如、この山に草庵を結ぶ。

 その前年、日本の仏教界に激震が走った。桓武かんむ天皇は、奈良の南都六宗なんとろくしゅうの影響力を低下させるため、奈良の平城京から京都の長岡京に遷都。当時、正式な僧は国家公務員のような立場にあり、奈良の東大寺など三戒壇のいずれかで授戒する必要があった。僧が天皇の座を手に入れようとした「道鏡どうきょう事件」が起きたのは、最澄が生まれて3年後のこと。権威の影で仏教本来の精神は軽んじられ、腐敗の色を濃くしていた。

東塔エリア

 山を登るにつれて、空は暗くなり、雨が落ちてきた。今の比叡山は、東塔・西塔・横川という3つのエリアのなかに、100を超える建物が点在している。「延暦寺」とはそれらの建物の総称。私たちは、その中心となる建物「根本中堂こんぽんちゅうどう」を目指していた。

 766年、近江おうみ(現在の滋賀県)に生まれた最澄(※)は、20歳の時、東大寺の戒壇院で授戒し、正式な僧となった。そのわずか3ヵ月後、故郷の比叡山に籠って仏道修行に身を投じる。

 なぜ、エリートコースを捨てたのか——。その心の一端を、入山当初に最澄が執筆した『願文がんもん』に垣間見る。

「愚の中の極愚であり、狂っている中の極狂であり、心の荒れたつまらない人間であり、最低である最澄」は「解脱の味を自分一人で飲み味わうことなく、また安楽の結果を自分だけで悟ることなく、この宇宙のあらゆる生き物が同じく立派な悟りの立場に登り、この宇宙のあらゆる生き物が、同じくすばらしい悟りの味を飲むことにしたい」

 誰もが仏になれる「法華一乗ほっけいちじょう」に自らの理想を見た若者の、ひりひりとした切望が表れていた。

不滅の法灯

 入山から3年後、最澄は最初の建物「一乗止観院いちじょうしかんいん(のちの根本中堂)」を創建している。自ら刻んだ薬師如来を祀り、その前に灯明を捧げた。薄暗い根本中堂のなかで、今も淡い炎が周りを照らす。灯明の燃料は、朝夕2回、欠かさず注ぎ足される菜種油。1200年以上、灯り続ける「不滅の法灯」は、比叡山で学ぶ僧侶が尽きないことも意味している。

 794年、度重なる飢饉や疫病に心を痛めた桓武天皇は、長岡京から平安京に遷都する。仏教に精神的な救いを求めた天皇にとって、最澄は腐敗した仏教界に咲く蓮のように思えた。

 37歳の時、最澄は桓武天皇の期待を受け唐に渡る。中国では、すでに智顗ちぎとその弟子らが法華経を根本とする天台教学を完成させていた。天台教学を中心に、密教・大乗戒・禅も学んだ最澄は、10ヵ月ほどで帰国する。翌年1月、従来の南都六宗に加え、天台法華宗からも得度とくど者が認められた。

 しかし、2ヵ月後、桓武天皇が崩御。最澄は最大の庇護者を失った。

戒壇院

 根本中堂がある東塔エリア。そのなかに戒壇院がある。扉が開くのは、戒律を授ける年に1度だけ。授戒する僧も、一生に1度しか中に入ることができない。鮮やかな赤が雨に濡れた木々の緑に映えて美しかった。

 818年、最澄は東大寺で授かった戒を棄てることを宣言する。正式な僧になるために必要な三戒壇の戒は、上座部(小乗)仏教の戒律である具足ぐそく戒。それは、大乗仏教の僧も同じこと。しかし、最澄は「大乗仏教の僧養成のためには、大乗戒で資格を与える制度が必要だ」と痛感し、比叡山に大乗戒壇の設立を求める。既得権益を守りたい奈良仏教界が大反対するなか、820年、大乗戒の意義と正当性を著わした『顕戒論けんかいろん』を嵯峨さが天皇に上奏した。

根本中堂

 2年後、最澄は比叡山で静かに息を引き取る。ようやく大乗戒壇設立の勅許があったのは、その7日後。奈良仏教界からの独立は、新たな日本仏教の幕開けとなった。

 2016年から10年間、根本中堂は平成の大改修が行われている。訪れた時に行われていたのは、廻廊の屋根の「とちき」作業。その規則性が美しく、この技術もまた、延暦寺の歴史とともに引き継がれてきたのだろうと想像する。

根本中堂

 武家が台頭した鎌倉時代。不安定な政情に加え、天災や疫病、飢饉が続き、人々は苦しみのなかにいた。さらに、釈迦の教えが力を失う「末法まっぽう」の時代に入ったという不安も蔓延していた。そんななか、「民衆の救済」を目指す新しい宗教者が、比叡山から次々と誕生する。

 そのなかに、のちに「日蓮宗」の開祖となる日蓮がいた。日蓮は安房国あわのくに(現在の千葉県)の生まれ。21歳で比叡山に登り、10年間、山に籠もって様々な宗派の教義を学んだ末、「法華経」を選び取る。庶民に生まれ、人々の苦しむ姿を間近で見てきた日蓮にとって、性別や身分の区別なく救われる「法華一乗」の思想は、若い最澄と同じように、苦しむ民衆を救う、ただ一筋の光に見えたのだろうか。

根本中堂

 根本中堂の内部は、外陣・中陣・内陣に分かれ、ご本尊が安置されている内陣は、中陣よりも3メートル低い。別名「修行の谷間」。その土間を、剃髪した若い僧がきびきびと歩いていく。

 僧養成の理念や制度をまとめた『山家学生式さんげがくしょうしき』のなかで、最澄は大乗戒を受戒したあと、12年間比叡山に籠り、山を下りることなく修行に励むことを求めている。そのストイックな姿勢は、日本に根づく「体育会系」の精神を思い起こさせた。

「わがために仏をつくるなかれ。わがために経を写すなかれ。わが志を述べよ」(『伝述一心戒文でんじゅついっしんかいもん』)

 山を下りる頃には雨は上がり、琵琶湖畔に暮らす人々の上に低い雲が広がっていた。

比叡山ドライブウェイ

〈次回は7月24日(月)公開予定〉


【脚注】
※ 史料により最澄の生年を767年とするものもある。

【参考文献】
小島信泰『最澄と日蓮―法華経と国家へのアプローチ』(レグルス文庫)
末木文美士他『日本仏教の礎 (新アジア仏教史11日本Ⅰ)』(佼成出版社)
伝教大師一二〇〇年大遠忌記念特別展図録『最澄と天台宗のすべて』(読売新聞社)
植木雅俊『日蓮の手紙』(NHKテキスト)
福永光司『最澄・空海(日本の名著)3』(中央公論社)

宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。


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