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「生きづらさ」の沈黙

「生きづらさ」という曖昧な言葉はジンジンと心の底に響いて痛い この痛みをどこに持っていけばいいのだろうか

制度にも需要と供給という関係性にも、だからといってサービスにも専門職にも政治家にも よくわからないけれど曖昧だからこそ手が届かない

だけどそこにある「痛み」は本当に存在している 

例えば医者が「異常なし」だと言っても 異常があるから病院にいっているからで 自身の中でうごめく苦しみに「異常さ」を自身が感じている

「生きづらさ」という言葉をよく見聞きするが そこには言葉にならない沈黙が数多く存在していて綱渡りの毎日を過ごす人々が存在していて 

LGBTQ ジェンダー いじめ メンタルヘルス 過労死 

枠組みは違うとしても根底にあるものは同じだと思うのは私だけなのか

誰かが「死にたい」と言ったとして さらに誰かが本当に「死」を選んだとして 自分の手の届く 関心のある人にだけ悲しみを表現し 自身の体や心の外にある存在には悲しみは示さずに通り過ぎてしまう 

そんな自分の浅ましさが気持ち悪い 

「死」を自ら選んだ事はその人のものなのに世間はそれを許さない 自殺が良い事だとは思わない だけども良い悪いの奥底にある その人にしか分からない想いを見つめずに批判するのはあまりにも失礼だ

言葉にすると簡単に表現されるものになるが 言葉に出来ない感情があるのも確かで 「生きづらい」と言えば楽になるだろうし言葉に出来たらきっと楽だろうし そんな事はとっくの昔に分かっている 

言葉にしないという選択 「沈黙」の選択

自殺は「沈黙」の選択なのかもしれない

語らない事が世間を揺らがせ多くを語る事になるのかもしれない

だけどそれだけでいいのだろうか?

「生きづらさ」とは何だろう 私のあなたのこの「生きづらさ」とは何だろう 

黄色い花が揺らいでいるのを見るたびに 心の奥底にある揺らぎと共鳴して痛い 玄関のドアを開ける瞬間が好きだ 嫌な夢で起きると安心する「自分はまだ生きづらい」と 生きづらい事が当たり前だから その先にあるものから逃げている 幸せになる事が怖いというのは寒気がするほど嫌いな言葉だけど きっと本質はそうだ 怖いという事だろう

そして 怖いという事と同時に「そうでありたい」という願い 私は自分の痛みを敏感にとらえられない人にはなりたくない この痛みに生きづらさに目を背けてしまうのは楽だ だけど人の痛みも想像できない鈍感な馬鹿なフリして生きていける 笑顔の裏に悲しみがにじまない 鈍感な人にはなりたくない

それが 私なりの「沈黙」だ