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私にはわからないこと

「私の仕事」

自分がこのお題を選ぶことは決してないと思っていたので、書き始めた今も少し緊張している。

「仕事」「働く」「正社員」「アルバイト」「パート」「専業主婦(主夫)」

人との会話で、出来る限り避けて通りたいと思っている言葉だ。

それぞれに解釈の違いがあり、相手によっては自分が絶対に正しくて、話し相手の言い分など聞く耳持たない人もいる。
勝手な思いを押し付けようとする人もいる。
同じ職場仲間なら何てことないかもしれないが、今の私のような立場(専業主婦)がいたりすると、デリケートな話題だと思っている。
聞くと、本当にいろいろな理由で「今は外で働けない」という事があるから。

私はこうだけれど、あなたはそうなのねと思えない人は、世の中には意外と多い。

私は、時々

あなたにはわからないだろうけれど

と言われたりする。
見た目やキャラ的に、そう言いやすいのだろう。
「地蔵っぽい」と言われたことがある。
(お地蔵さま、すみません)

最初から、私にはわかるわけないですが、話したいなら聞かせてくださいくらいな、ある意味で失礼な気持ちを少し隠し持って聞くことにしている。

仕事の愚痴とか正社員とパートとの間にあるものとか、フリーの不安とか誰かに話したい時ってあるでしょう?

私に話してどうなるものでもないが、役に立てるなら嬉しいのだ。

そしてまれにだが、話の終わりに

まあ、あなたにはわからないだろうけれど話しちゃったんだ、と言われると、こちらには大きなモヤモヤが残る。

頼んでもいない宅急便がドッカンと届いたみたいな。
なんだよ、それ!マウンティング??とねちっこく思ったりもする。

話してくれた方には申し訳ないが、私けっこう性格悪いのよ。地蔵だけどね。
そういう時は、「話してよかった」「スッキリした」でひとまず終わらせようよ、よくもスッキリもしてなくてもさ、と思う。
言わないけれどね。地蔵だからね。

学生時代にアルバイト(御守りやおみくじ販売、学生会館の事務、喫茶店のモーニング)をしていた時も、学校という場所でほんの一瞬だけ教えていた時も、図書館にいた時も、授業についていくのか厳しい子達の家庭教師をしていた時も、アンティーク着物や古布を販売していた時も、子どもの学校のPTA活動の時も、私の気持ちや力の入れようはあまり変わらない。

決めていることは、与えられた仕事は、締切より早くに仕上げること。

相手からのチェックが入った場合、修正する分の余裕を考えて仕上げること。

ギリギリだとか、遅れたことはおそらくないと思う。
(自分の記憶なので、自分に都合よく改ざんされていたらすみません)


「バイト行くの面倒くさいな、今日行かなくてもいいか、よし、サボろう!」

「所詮お金もらえないことなんだから、そこまでしなくていいじゃない?お金出してくれるならやるけど」

などを周囲で聞くと、自分にはその選択肢がなくて、そうはっきり言えるのは凄いと思ってしまう。

私は昔から、目一杯まで自分が真っ先に動いてやってしまい、体調を崩したり心にダメージを負ったりする自爆型タイプ、周りにとっては面倒な暑苦しい系だ。

自分の限界、許容量を知ることの大切さを、私は出産前までいた激務の店で身をもって知った。

楽しいを越えた楽しいの先に、強制されたものではなく自分から進んでやってはいるものであれ、体や心が壊れることがあること。

疲れの限界を越えると、身体からのシグナルには気づきづらくなっていること。

世の中には、自分の働く量を把握している人がたくさんいて、その人達はちゃんと、きちんと、コントロールしている。

たとえば、◯時以降は連絡不可ですとか、私はそれはしませんとか、しっかりと伝えることが出来る人たち。

「私は自分の生活の方が大切だから、誰になんと思われようとそうする」

上司や同僚に対して堂々とそう言う人を、立派だ、すごいと思っていたし、今も思っている。

みんなやりたがらない。
私は人に強制したくない。
空いたところを埋めないと私が上から責められるし、何とかしろと言われるし、現場がまわらない。
だから自分が出る、そして無理が祟って倒れるという駄目駄目パターンのループ。

もうそれは繰り返したくないと、そこから抜けたのだ。
出産、子育てを理由に。

そしてまた戻ろうと思って、探している。 
探すことも吐き気がするほど嫌だった時期があったが、今は前向きにゆっくり探している。

私の仕事能力は高くない。低い。そして体力もない。
そこを突いてくる人もいる。

「専業主婦の力、見せてもらいますから」

と言われた時は、ドラゴンボール的なバトルでも始まったのか?と面食らい(ドラゴンボールをほとんど知らないのにすみません。書いてみたかっただけ)、これはなかなか言われる言葉じゃないぞと可笑しくもなった。

そう言った方には悪気はなく、きっと言ってみたかったのだろうし、過去に相当な嫌な思いもされたのだろう。

聞くと、口ばかりで何もしない人たちと一緒だったこともあったようで、それはさぞかし辛かったに違いない。

どんな場所でも、私は私が出来ることを精一杯やるだけ。世の中の多くの人がそうであるように。

WordやExcelが不要な場所でしか働いたことが無かった。
自分のワープロ「書院」で事足りていたのだ(笑)

現在ほんのさわり程度にそれらが出来るようになったのは、PTAの書類作成で必要だから。

それでも私は「PC出来ません族」に間違いない。
学校のPTA室のPCには触るもんかと決めている。(何かしてしまったら…と思うと恐怖)

あなたにはわからないだろうけれど

今は別の意味を込めて、言われることもあるだろう。

能力を低くみられても全く構わない。実際そうなのだから。


大学生のころ、女子専用の学生会館で数年間アルバイトをしていた。

学生会館というのは、地方から上京した大学生達がワンルームを借りて住む共同住宅。

寮を想像してもらえると、それが近い。
ワンフロアに10人くらい、70人くらいの規模だったと思う。

各自個室があり、私が働いていたところはトイレと風呂、洗濯乾燥室が共同だった。(シャワー室が何室か)

音大生専用の完全防音の部屋や、屋上にはピアノレッスン室があった。

メインの玄関横の事務所には24時間体制で人がいて、在館生が出かけ、帰ってくるたびに
「いってらっしゃい」と
「おかえりなさい」を
事務室にいる全員が声かけした。

在館生の門限が夜9時で、それを過ぎる場合には、保護者の届け出が必要だった。

玄関ロビーにある、部屋ごとの郵便受けには、部屋番号のついた押しボタンがあった。

在館生は自分が出かける時にボタンを押す。
帰ってきたら、押して部屋に戻る。
ボタンランプが点灯している時は居る時、消えていたら居ない時。

事務室にいる管理人に、常に在館か留守かを知らせることが義務付けられていた。


携帯電話が、肩にかけるショルダーバッグのようなかたちをしていた頃だった。

個人で携帯電話を所持していた(先述のショルダーバッグ型)のは、私の行動範囲で知る限り、ここ学生会館の事務長くらい。
会館の営業部社員は、ポケベルを持って外回りしていた。

在館生の電話は、個々の部屋に会館とは別の回線でひくことも出来たが、それをするには安くはない別料金がかかった。

基本的に学生会館の番号を「自分の電話番号」として使うことが出来たので、先方から学生会館に電話がかかってくると事務室が受け、交換台から各部屋にいる学生に伝えて、部屋の電話に外線をまわすというスタイルだった。

誰から自分に電話がかかってきたのか、事務室の管理人に知られてしまう。

一人一台携帯電話を所持する今からは想像し難いことだが、在館生の多くは、当時これを受け入れていたのだった。(10名弱は個別電話を引いていた)


東京に初めて18歳の娘さんをひとり住まわせることに不安がある親御さんが、ここなら常に大人の目があるから安心と、親子で見学に来た。

「嫌だなぁ。一人暮らししたいのに」と不満に思う娘を説き伏せ、無理矢理住まわせていることが多かった。

二年更新制だったので、多くの学生らは三年生になる頃に会館を出て、一人暮らしを始めていた。

私は、学生会館の繁忙期に働く雑用係だった。

見学に来る親子の対応、これから入ってくる事が決まった新入館生の書類整備や入館手続き、説明諸々。

卒業して会館を出て行く方々の書類整備や、二年更新せずに新たなところに引っ越す方々の対応。

洗濯乾燥機のコイン回収や、会館のお金関係の振込、部屋整備の手伝いや、営業部門のサポートなど、仕事内容はさまざまだった。

事務長や私直属の上司、経理、営繕、営業、清掃部門の方々はみんな私の親よりも歳上か親世代。

小娘がひとり、大人達の中であくせく動きまわっていた。

上京してきた女の子達が、東京の大学に通うようになり、どんどん変わっていく様子を毎日見ていた。

メイクをするようになり、服装が変わり、男性からかかってくる電話が増えてくる。

ああ、青春だなぁと微笑ましく思った。

私はこのバイトを友人から教えてもらい、面接らしい面接もなく、「明日から来て欲しい。いつでも好きなだけ休んでいいから辞めないで」と言われた。

直ぐ辞めてしまう人が多かったそうだ。

そんな殿様待遇でいいのかしらと恐々始めたのだが(自給は850円だった)マニュアルがありそうで無い事を同時進行でこなしていくのが自分には合っていて、楽しく働いていた。

歳上の方々の仕事ぶりの中には、疑問に思うこともあったし、仕事仲間同士が狭い事務所で怒鳴り合ったり、男女差別があったし、上に媚びへつらったり、下が見下されたりもあった。

ラッキーなことに、私は大人達にわりと可愛がってもらえ(かなり歳上の方々と話すのは楽しかった)、働く楽しさを知ることが出来たと今も思っている。

今、学生会館は建物だけ残り、違う施設として使われている。

数年前、会館近隣のお店の方から、事務長が数年前に亡くなったことを教えてもらった。それもかなりショッキングな事実と共に知った。

あなたにはわからないだろうね

黒縁メガネをかけた当時の事務長は、今の私より若かったはずだ。声も覚えている。

事務長、私はまた自分に合った仕事を見つけられたらと思っています。
あの頃の学生会館で働いた経験は、そのあとの私の仕事に役立つことがありました。
私、あの時とあまり変わっていません。
不器用で偏屈で世間知らずです。
あきらめず、コツコツ探していきたいと思っているので、見ていてくださいね。

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お読みいただき、ありがとうございました。

※見出し画像は「みんなのフォトギャラリー」よりhyoryusaiboさんの作品をお借りました。ありがとうございました。

先日の「すまいるスパイス」で「給湯室のトーク」みたいねという言葉が出て、昔のバイト先を思い出し、書きたくなりました。

事務室の面々にはそれぞれの湯呑みがあり、濃さや熱さの好みが違い、お茶を出す順番(誰にいちばんに持っていくか)もあったよなぁと懐かしく思い出しました。

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