『アンチヒーローズ・ウォー』 第一章・4
その戦いの記録は、ボガート・ラボの怪人《ノワール》全員に共有されていた。
さる九月九日。オルキスタンはザガンの森。
隣国トラーダの軍に加わっていたシュガーとヘルラは、オルキスタン所属の英雄《ブラン》、グラウンド・ゼロと交戦し、撃破された。
以降、ヘルラに関する情報は更新されていない。
それ以前の記録も、彼女の製造段階まで遡って調べることは容易だった。
怪人《ノワール》には一般研究員に次ぐ情報アクセス権が与えられており、任務に必要な知識や戦闘記録、対立する組織の情報などはほぼ自由に閲覧できる。
その中でも、ダイトウムースのヘルラに関する記述は百数十ページにのぼっていた。
任務達成率九六.六%、直接交戦時の勝率九九.八%、平均損傷率三.四八%。
「凄い……」
与えられた任務はほとんど無傷で完遂。ラボ最強と謳われるのも納得の戦績だ。
経歴が途切れた最後の任務以外、彼女には敗北らしい敗北すらなかった。
戦場では鬼のように強い。まさに戦鬼。
だが、ふだんの彼女はとても気さくで、後輩の面倒をよく見ていたという。
特にアルタンユーズとは仲がよく、能力面でも相性がよかったので、日頃から行動をともにすることが多かった。
ダイトウムースは、アルタンユーズを怪人名ではなく「シュガー」と呼び、アルタンユーズはダイトウムースを「お姉ちゃん」と呼んで慕っていた。
「うーむ……」
がり、とシュガーは額の傷を爪でかいた。
「まるで架空の伝記を読んでるみたい。でなきゃ、持ってもいない家電の説明書」
ぼやきながら端末を落とす。
知識は得た。基本的な情報は把握できたが、それだけ。
黒髪に浅黒い肌を持つ顔写真の人物が、笑ったり怒ったり、ものを食べたりしている姿が想像できない。
血の通わない、ただの文字の羅列。こんなもの、いくら読んだところで時間のムダだ。
原因はわかっている。
記憶喪失。つまるところ、戦闘で受けた損傷による後遺症だ。
心にあいた穴はあまりにも大きく、いくら情報を入れても埋まらない。
つらくて苦しくて悲しいのに、それを“事実”と結びつけることがどうしてもできない。
(くそ……)
グラウンド・ゼロ。シュガーとヘルラをやった英雄《ブラン》の名前。
‟そいつのせい”で、いま、こんなことになっている。
(くそ……くそ……くそ……くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそ……)
呪いの言葉を繰り返し、憎悪を空虚に注ぎ込む。
「はあ……」
疲れた。
リハビリを兼ねた訓練に、シュガーは真面目に取り組んだ。
後方勤務は希望しなかった。一日もはやく体力を取り戻し、現場に復帰する。そう宣言すると、シャーリーは驚いた顔をした。
「ひょっとして、ヘルラの仇を討とうってのか?」
ヘルラについて訊いてまわっているとき、グラウンド・ゼロにも話題が及ぶことが多かったので、そんなふうに思われたらしい。
「まあ、そうかな」
ヘルラに関してもどう処理していいか決めかねているのに、彼女を倒した英雄《ブラン》ともなると、正直さっぱりだった。
そういう心境をいちいち説明するのも面倒なので、曖昧にうなずいていると、いよいよヘルラの敵討ちという説が皆の中で確定してしまったようだ。
仲間からの反応は芳しくなく、ほとんどが「やめておけ」と忠告してきたが、シャーリーだけは豪気だと言って褒めてくれた。
「オレの知る限り、英雄《ブラン》とサシでやりあって勝った怪人《ノワール》はいねえ。そんくらい、奴らは手ごわいんだ」
彼らは『表』の存在で、シュガーたち怪人《ノワール》は『裏』の存在。運用が異なるため、両者が直接戦う機会は、実はすくない。
それでも、まったくないわけではなく、時に怪人《ノワール》が英雄《ブラン》に狩られることもある。
怪人討伐はヒーローの役目というわけで、たまにあげられる戦果は大々的に喧伝されるのだという。
「逆は? 大勢でやればなんとかなりそうだけど」
「怪人《ノワール》を創るんだって金がかかるんだ。勝ち目の薄い戦いをするよりは確実に獲れる星を獲る。偉い人ってのはそう考えるものらしいぜ」
英雄《ブラン》というのは、それほど恐ろしい相手なのか。
ならば、なぜヘルラは戦ったのか。逃げることはできなかったのか。
最強の怪人《ノワール》であるという自負? 力を試したかった?
あるいは、味方をかばって――
もしそうなら、憶えていないことがいっそう呪わしい。
とにかくいまは、出来得る限り殺される前の状態に近づくことが肝心だった。
「今日はもうお終いにしよう。これ以上はオーバーワークだ」
シュガーとしてはもうちょっと続けたかったのだが、ボガートが許してくれなかった。
自室にもどり、背中からベッドに倒れ込むと、その姿勢から身動きしたくなくなる。それでようやく、疲労しているのだと自覚した。
せめて着替えを。歯、みがいたっけな。訓練が終わったら、まずなにをしよう。
とりとめもなく思考をめぐらせていたら、目がとろんとしてきた。まぶたをあけているのがつらい。意識が……とぎれ……
次に目をあけたとき、飛び込んできたのは女の顔だった。
仰向けに寝ているシュガーに覆いかぶさるようにしている。
切なげな表情で、なにかを言いたそうに、すこしくちびるがひらいていた。
(誰だろう……でも……きれいな人……)
ヘルラでもシャーリーでも、他の知っている誰でもない。
思い出そうとしているうちに、また睡魔が襲ってきたので、シュガーは考えるのをやめた。