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“初ゴジ”をスクリーンで観るという体験


 シリーズ第一作目の『ゴジラ』(1954)の公開から70周年の節目となる今年、同作を含む歴代の過去作品をスクリーンで観られるリバイバル上映企画「ゴジラ・シアター」がTOHOシネマズ日比谷ほか全国5か所の劇場で展開されている。

 我々ゴジラファンにとっては単にシリーズ第一作目というだけでなく、すべてがここから始まった聖典といってよい作品。これをスクリーンで観られるまたとない機会だ。

 私も7月の三連休を利用して観に行ってきた。

私と初ゴジ

 昭和63年生まれの私はゴリゴリのVS世代だ。小学校に上がる前の幼少期がVSシリーズ全盛期と重なっており、毎年冬には新作公開のプロモーションの一環として過去作が金曜ロードショーで放映されていた。これをVHSに録画してもらったものを毎日毎日繰り返し観ていたのが私とゴジラとの出会いだ。

 クリスマスに絡めたJR東海のCMや安達祐実主演の『REX』のCMも思い出深いが、この時代のゴジラといえば、魅力あふれるライバル怪獣との光線技の撃ち合い、Gフォース、三枝未希にスーパーXなのであった。

 外連味あふれる川北後光をいっぱいに浴びて育った私と初ゴジとの出会いは遅かった。

 少なくとも中学時代までにはレンタルビデオを親に借りてもらうなどして過去シリーズは制覇していたはずなのだが、当時の初ゴジのインプレッションは記憶から抜け落ちている。

 84ゴジラは「敵怪獣はいつでるのかなー」とワクワクしながら観ていたらエンディングになってしまいしょんぼりした記憶があるのだが…キッズだったから仕方ないね。だから、この時分に第一作目のゴジラを観ていたとしても、それはすれ違い程度のものだ。

 小学校高学年では平成ガメラに夢中になり、中学高校は別の趣味に関心が移っていたため、ふたたびゴジラと向き合ったのは大学に入ってからだった。

 大学時代はニコ動全盛期であり、『涼宮ハルヒ』『狼と香辛料』といったラノベ全盛期であり、私はサブカルであった。ブッコフでカバラ派魔術の実践書を手に入れてパソンコの文字コードをルーン文字に対応させたり、ナチス由来のオカルティズムに触れて地球の地軸が傾いている意味を地質学の先生に質問しにいって呆れられたりとやりたい放題であった。

 そんななかでもゴジラへの気持ちはずっともち続けていたから、名作と名高い第一作目を改めて観てみようとDVDをレンタルしたのではなかったか。

 このように遅れてやってきた厨二病重篤者が『ゴジラ』(1954)を観たらどうなるか。

 初ゴジ原理主義者ができあがるに決まっている。

初ゴジへの信仰はひとりひとりの中に

 第一作目『ゴジラ』(1954)が公開されてからの70年間に、この作品の魅力はあらゆる人が語っている。

 人間ドラマ面では、『シン・ゴジラ』の監督を打診された庵野秀明師が市井の人目線では本作を超えられないと、当初固辞していたエピソードからも本多猪四郎監督の手腕は疑いようもない。

 円谷英二特技監督の特撮の素晴らしさは言うまでもなく、東宝怪獣映画の第一作目にしてミニチュア特撮でやれることをほぼすべてやり切っているのがすごい。個人的に好きな芸コマポイントは電車のシーンの直前、迫りくるゴジラの足元で一歩ずつ瓦礫が蹴り上げられる演出。『シン・ゴジラ』でもオマージュと思われるシーンがある。

 私ごときがこの作品の魅力を改めて語るのも憚られるのだが…。ひとつ言えるのは関係性の映画だということだ。

 それは尾形(演:宝田明)、芹澤(演:平田昭彦)、恵美子(演:河内桃子)の三角関係の話でもあるし、ゴジラとオキシジェンデストロイヤーがそれぞれ暗喩するものと人類との関係性の話でもある。

 そして何より、戦争を経験した世代の作り手が、戦争を経験した世代の観客に向けて作ったことで唯一無二となっている作品である※。そこに存在する、戦争への、原爆への確かな怒り。今日ではテーマ性などという陳腐な言葉で矮小化されてしまっているが…。当時の人々がこの作品に込めた祈りが、平和を希求する後世のあらゆる国の人々の心を動かし続けているのだ。

 かくして青年期の私は「反戦メッセージのないゴジラは認めん!!」といった原理主義過激派と化したわけだが、いまでは新作公開のたびに祭りで祝う福音派に改宗しているので安心してほしい。

 ゴジラ(というコンテンツ)の本当の強さは、時代に合わせてキャラクターを変えられる多様性にあると気づきましたでな。

初ゴジをスクリーンで観るということ

 ここまで読んでくれたのは『ゴジラ』(1954)鑑賞済みの方が多いだろうけれど、未見の方にも本作が映画史に残る名作と呼ばれる所以が伝わっていれば幸いだ。

 我々ゴジラファンにとって『ゴジラ』(1954)は聖典であり、精神的支柱であり、生命の樹である。そんな作品ならばこそ、余すところなく玩味したいと願うのはファンならば当然のことだ。

 なのだが、完璧に思えるこの作品にも欠けているものがある。公開から時間を経るにつれ取り戻せなくなる味わい。フィルムの劣化ともまた違う。

 それは、戦争を経験していない我々の精神が、当時の観客のそれと離れてしまうことから生じる、作り手とのコミュニケーションの齟齬。

 戦争を経験した世代の作り手が、戦争を経験した世代の観客に向けて作った作品であるからには、作り手が観客に送ったメッセージは彼らに共通のコンテクストに乗っているはず※で、戦争を経験していない我々は作り手のメッセージのいくらかを取りこぼしてしまっているのではないか。

 我々は、自分の国が戦争をしていない平和な時代に生まれた幸運に感謝しつつも、1954年当時の観客と同じコンテクストを共有し得ない、幾ばくかの寂しさを抱えながら『ゴジラ』(1954)を観るよりほかないのである。

 ここで映画館での鑑賞が特別なものとなる。

 やはりスクリーンで観ると没入感が違う。当時の観客も同じようにスクリーンに映るゴジラに、特撮に、人間ドラマに、芹澤の苦悩に心を動かされていたのかと思えばその寂しさもまぎれるというもの。

 そして、いままで触れてきた戦争についての知識を総動員して、終戦9年後の観客の心持ちになりきって観てみてほしい。4DXでも決して得られない映画体験が訪れるはずだ。

 もちろん座席は最前列がオススメ。円谷英二が全力投球しているゴジラの迫力だけでなく、宝田明&平田昭彦の1950年代メンズのウエストの高さも5割増しなのでお得だ。

※戦争を震災に置き換えてその関係性を再現したのが『シン・ゴジラ』である

2年後のラドン70周年も盛り上げていこうね!!!

公式はあんまり期待できない(ラドンなので)から君たちだけが頼りだ!!!

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