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狩猟免許合宿4日目──農業はthick lifeだ

昨晩、受け入れ農家のNさんから連絡があって、もう1日ゆっくり休んだほうがいいと言われた(昨日は熱中症になってしまったのだった)。そんなわけで、早起きの必要がなくなったわたしは、いつもより多くのビールと日本酒を飲み、たっぷりと寝た。二度寝、三度寝を繰り返し、12時頃に起床。気づけば他の合宿生が昼休みで宿舎に帰ってきている。


とうもろこしの昼

昼食はとりあえずとうもろこし。いただきものの大量のとうもろこしがあるので、朝も昼も夜も、とりあえず頬張る。もはやわたしたちの主食は米ではなく、とうもろこしである。

宿舎で日がな過ごすとはいっても、ここの宿舎は冷房が効かないので、実際とても暑い。北海道だからと多少過ごしやすい気候を期待して来たのだが、日中は30℃を超えるような暑さなので、扇風機だけではとても涼めない。これでは大阪にいるのとほとんど変わらない、いや、冷房がない分、大阪よりも厳しい暑さかもしれない。

冷たい飲み物を飲んで、扇風機に当たって、それからどうしても暑かったら水シャワーを浴びることで、なんとか凌ぐのだ。

ウィリアム・ジェームズは「ひとは悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのである」と言う。それを借りてこう言おうではないか。

ひとは暑いから汗を流すのではない、汗を流すから暑いと感じるのである。

腕では汗が玉となり、滴り落ちる。脇の下や胸にも汗が滲んでいるのがわかる。だから、暑いのである。

先ほど近所のスーパーに行ってきた。冷房のひんやりとした風がどこか懐かしい。わたしたちは暑さに夏を感じると同様、その暑さに対処すべく動かしている冷房の冷気にも夏を感じるものなのだ。作り上げられた第二の自然。

アボカドの夜

昨晩、2人の宿泊者に「アボカドの夜」を読んでもらった。

感想①

そのうちのひとり、ふくちゃん(学生で絵が上手。熱中症の折にはアクエリアスを買って来てくれた)からは「変態ですね」「仲良くなってからこれを読ませるんじゃなくて、知り合って最初の方に読ませるのはすごいですね」というコメントをもらった。

仲良くなってから知ってもらうよりも、先に読んでもらった方が、より伝わるだろうと思っていたから読んでもらったのである。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」でも言われていることだが、今日は情報が氾濫していて情報の伝達速度としては遅くなっているという話がある。情報も玉石混交で、どうでもいいような話がサッとやってくるということがある一方で、「真に知るべき」情報が伝えられずにいたりする。

そのようなことが念頭にあったから、そして、ここで一緒に過ごせる期間も短いものだということを知っていたから、より速く、わたしのことを知ってもらおうと思ったのである。

以降のわたしはふくちゃんにとっては「変態」である。まだ仲良くしてくれてありがとう。

感想②

読んでくれたもうひとり、Yさん(現時点で唯一の女性参加者。大学院生で、数日後にオンラインで論文の発表を控えていると言っていた)からは「繊細な人ですね」「いい意味で気味悪い文章。何回か読まないとわからないと思う」と言ってもらえた。そしてAmazonで『不/見』を買ってくれた。東京に帰ったら、友達が書いた本だと言って紹介してくれるらしい。感激である。

Yさんのくれたコメントの中でも、特に「気味悪い」というのはうれしい評である。

なぜか。本とは本来読めないものであって、簡単に「わかって」しまったり、心地良くなってしまえたりするということは、自分にとって都合の良い部分のみを鏡写しに感じとっているに過ぎないからだ。読むべき作品とは、どこか居心地の悪さを感じさせるものである。そして、居心地が悪いということは無意識に防衛が働くということであるから、何度も繰り返し読むべきだということになる。

「アボカドの夜」がそのような読むべき作品であるかどうかはわからないが(無論、そうであればうれしいと思っているが)、このようなコメントをもらえたことに確かな手応えを感じたわけである。

(「アボカドの夜」は下記より購入できる『不/見』に収録されています。)


狩猟免許は???

ところで、狩猟免許の合宿なのに、肝心の狩猟の話が出てこないではないか、という話もあるだろう。それはわたしも思っていたところだ。狩猟の講座は8月26,27日にそれぞれ丸一日行われるというふうに聞いている。日数にしたら、この合宿の7,8日目だ。それ以前以降は、農作業をして過ごすのが基本となる。

そして、この合宿プログラムだが、学ぶ免許は狩猟だけではないということがわかった。近くに自動車学校があり、ある人は普通自動二輪(バイク)を、ある人は大型特殊(トラクター等)を取りに来ている。農作業をして、それで実質合宿費が無料になるということで、ここではいろいろな免許が取れるようである。

ファストライフ、いや、thick lifeへ

明日からは再び農作業に復帰する予定だ。大変なのは目に見えている。参加者の誰かが言っていた。

「農作業がスローライフだなんて言ったやつ誰だよ」

本当にその通りだ。農作業をしたことのないひと、おそらくは都会に住んでいるひとが言ったに決まっている。ここよりファストな場所はどこかという話になって、「電通くらいじゃないか」なんて薄黒い冗談も出てきた。農作業はファストだ。

都会のような暇つぶしがないという点では、一見ゆっくりしているように見える。だがそれは自分たちで楽しみを作り出す必要があるということであって、自ら生み出した楽しみほど愉快なものはない。扱い慣れていない食材を試行錯誤で調理したり、その味について喋々したり、そういった瞬間瞬間が満ち満ちている。外に楽しみを探すのではなく、内に劈く。だからこの内向性が時に村八分のような事態を招くのも納得できる。ここでの基本的なポーズは内へ内へ、だ。

ただし、慌ただしさはない。

ウィトゲンシュタインは「自分のいる時代に先んじているだけの者は、その時代にいずれは追いつかれる」と言う。この意味で、農作業は「自分のいる時代に先んじ」ようとはしていない。むしろ、農作物の時空、虫たちの時空、野生生物たちの時空といった、現在より分厚い時空間感覚に生きていると言える。そのことを「スロー」と表現するのなら納得はできる。

資本主義にどっぷりの都会人はこの時代で「先んじる」ことを求められる。遅れないように、遅れないように。あるいは隣人より速く、いや、誰よりも速く。そんなことを考え考え生きているときにふと横目で捉えた農業が、その芝が、青く輝いて見えたのだろう。

わたしは明日から再び分厚い時間感覚の中へ放り出される。まだまだ都会人の心根が残っている身にとっては厳しい作業だ。いや、そうでなくともしんどい作業だ。

これも糧になると信じて、明日を迎えようではないか。

分厚い、thick lifeを。


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