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浪人時代、2ちゃんねるでシャンクスと呼ばれていたときの話

四月は最も残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。

T・S・エリオット『荒地』岩崎宗治訳(岩波文庫)

アメリカの詩人T・S・エリオットは、彼の代表作「荒地」をこのような一節で始める。「四月は最も残酷な月」("April is the cruellest month")という有名な部分は知っているひとも少なくないだろう。この季節は年度が変わるタイミングでもあり、多くのひとにとっては、新生活を始める節目となる。あるものは失意のうちに、またあるものは希望を抱きながら、この月を迎える。日に日に強さを増す陽気にあてられるせいもあってか、外を歩いていてもどことなく落ち着かないような気持ちになる。記憶(過去)と、欲望(未来への傾向)がないまぜにされては、現在が膨らみだす。冬の間、死んだように眠っていたものたちが目覚め始める。木々は、冬を越すべく極限まで減らした表面積を、来るべき夏に向けて再び増し始める。

この季節になると、浪人生活を終えたときのことを思い出さずにはいられない。冬も終わったが、まるで冬のように忍耐した一年も終わったときのことだ。このnoteでは、わたしが大学浪人をしていたときのことを語りたいと思う。


ひとは様々な名で呼ばれる。わたしを呼ぶひとにも、名字で呼ぶひとや、下の名前で呼ぶひと、あだ名やペンネームで呼ぶひとがいるが、わたしが今も呼ばれる名前のひとつに「シャンクス」がある。言うまでもなく、尾田栄一郎さんの漫画『ONE PIECE』に出てくる赤髪のシャンクスが由来である。

高校時代

わたしは大阪府立のとある高校の出身だ。高校時代はほとんどちゃんと勉強をしていなかったので、進学校と呼ばれるようなその高校では、あっという間に落ちこぼれた。大学入試でも、どこの大学にも受からなかった。でもプライドだけは人一倍高かったから、浪人時代には死ぬほど勉強をしてやろうと思っていた。

当時のわたしは、派手であることが個性だと思っているようなところがあった。だから、イベント事があるたびに髪の毛を様々な色に染めていた。派手な色に染めれば、本当に自らも何者かに染まるかのようだった。ざっと列挙するだけでも、赤、ピンク、紫、緑、オレンジ、シルバー等々、果ては虹色まで……。そんなわたしだったから、予備校に入学して浪人生活を迎えるにあたって、一番派手な赤色で迎えようと思ったのだった。燃え滾る血の色である。


浪人時代

予備校にも当然クラスがある。class(階級)とはなかなかにむごい言葉だが、入校テストの結果によって、偏差値や文理等で分けられているそれぞれのクラスに割り振られるのである。4月、クラス分けを経て、わたしはある文系のクラスに割り振られることとなった。同じ高校から行くひとも多くて、頼もしかったのを覚えている。

クラス分けが終わってからしばらくしたある日、同じ高校からその同じ予備校に入学したある友人に言われる。

「お前、2ちゃんで叩かれてんぞ」

青天の霹靂である。本当かよ、と思いながら調べたら、河合塾⚫︎⚫︎校のスレッドで、たしかにわたしらしい人間が叩かれている。そして丁寧に「シャンクス」なんてニックネームまで付けられている。吃驚だった。わたしは見た目こそ派手だったが、勉強にだけは熱心に取り組んでいたので、叩かれる謂われなんてないよ、と思っていた。

だが、そんな見立ての方が甘かった。予備校とはいえ、誰もが一所懸命に勉強しているわけではないのだ。ストレスも溜まるだろう。その捌け口もなかなかないだろう。そんなときに手っ取り早いのが、目立つやつをこきおろすことだ。そいつに非があろうがなかろうが関係ない、目立つということだけで、叩く立派な理由になるのだ。匿名の掲示板に、赤髪でスカートはいてるやついるよな、あいつ○○らしいぞ、と誰かが書けば、また別のひとは「あ、あいつか、見たことある」と思い、共同性が立ち上がる。そしてあいつがいるという事実の確認にとどまらず、根拠のない出鱈目を誰かが書けばそれで盛り上がり、それを信じたひとがまたなにか別のホラを吹き始める。

2ちゃんねるに特有の現象ではないだろう。今日のTwitter(現X)でも、そんな光景は頻繁に目にする。問題は、大手予備校の一校舎という単位が、ほどよく個人の特徴を覚えることができる人数規模だということだ。こんなやつがいる、と聞いて、当該人物を発見しうる規模感、にもかかわらず、発見したときに喜びを覚えることのできる規模感、だが自らは匿名性の陰に隠れることのできる規模感、である。

2ちゃんねるの書き込みには本当にひどいものがたくさんある。個人を対象に欲望を剥き出しにしたものや、落ちればいいのに、という露骨な呪詛まで、本当に見るに堪えない。だから、わたしも自分が叩かれていると知った当初はまた自分のことが書かれていないか気になって見ていたけれど、こんなの、時間も自らのエネルギーも無駄にしていると思ってからはめっきり見なくなった。

どうしてわたしは彼らのように堕ちることがなかったか、といえば、それはひとえに勉強に対する熱量のおかげだと思っている。なにがあってもすべての解決を勉強のうちにしか見出さなかった。なにかストレスが溜まっても、その捌け口は勉強であったし、精神的なブレを極小にすることで機械的に勉強を捌くように心がけていた。もちろん人間だから波はある。朝、早起きできない日もある。でもそんなときも、起きたところから本気を出すということを徹底していた。禁欲もした。当時好意を抱いていたひともいたが、恋愛感情さえ抑圧した。そしてその内圧をすべて勉強に差し向けた。わたしは無敵だった。そんなわたしにとっては、2ちゃんねるの書き込みなど塵同然だった。勉強はわたしにとって「救い」となっていた。

そして、そのように必死に勉強をしているわたしを見てか、2ちゃんねるの書き込みにも「シャンクスの味方」が現れるようになってきた。そして、シャンクスへの誹謗中傷も落ち着いてきた。夏を越え、寒い季節が近づいてくるにつれ、ネットで叩いている人間も焦りを感じ始めたのかもしれない。


浪人以降

18歳という多感な時期に2ちゃんねるで叩かれたというのはわたしの人格形成に少なからぬ影響を与えていると思う。トイレで知り合いが冗談交じりでわたしのことをシャンクスと呼んだとき、2ちゃんねるには、シャンクスは友達にもシャンクスと呼ばれているらしいぞ、という書き込みがあった。また、書き込みを見ると、同じクラスにも2ちゃんねるに書き込んでいるひとがいるらしいということもわかっていた。そんな状況だったから、予備校にいるときはいつどこで誰が見ているかわからないという緊張感を常に感じていた。そしてそれをも、常に意識を張り巡らせて勉強するという積極的な方向に活用した。誰が敵かわからない、いや、わからない以上、知り合い以外はすべて敵だと思っておいたほうがいい、というスタンスを維持していた。そして、そんな四面楚歌の状況にわが身を置けば置くほどに、熱意や怒りは勉強に昇華されていった。だが、勉強という大きな方向性は、受験が終わるとともに失われる。でも、他者への疑いの目がなくなるわけではない。

今でも他者の視線に過敏であるのは、このときの経験が深く影響しているためだと思う。「葦田不見」というペンネームにもそれは影を落としている。

とはいえ、入試は無事終えた。第一志望の大学に合格することができたし、あのときの経験があったおかげで成長した部分もあると今では思える。大学入学時も、ピンク寄りの赤髪だった。新歓でよくお世話になったサークルがあるのだが、そこでも「シャンクス」というニックネームで可愛がってもらうことになった。以来、わたしは「シャンクス」なのである。

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