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つちとつちのあいだで

 七歳になる甥とよく散歩に出かける。彼は下ネタが大好きな年頃で、路上に動物の糞を見つけてはうれしそうに教えてくれる。どうして子どもはこんなにもうんこに惹かれるのだろう。思うに、それは芸術や文化の第一歩だからではないか。排便は人間最初の創造行為である。非力な赤ん坊でさえ、自らの身体を使って「ものを形づくる」。どんなにドロドロの冷えたごはんを食べても、それが肛門を通り抜ける頃には、熱く、一定の形を保っている。その神秘に子どもたちは気がついている。うれしくて仕方ないのだろう。自分からこんなものが生まれるなんて、と。

 cultureは「培う」や「養う」を意味するcultivateと語源を同じくする。私たち人間は大地を耕してはそこから何かを生んできた。土を捏ねては器を作り、それに火を入れて丈夫にする。先祖たちはそうして出来上がった器に水を入れて温めただろうし、熱された水は気体となって風と混ざったことだろう。文化は自然から切り離すことができない。

 ここで、humanがhumus(地面や腐植土を意味するラテン語だ)に由来することも思い出しておきたい。私たち人間も元は土だったのだ。土であるところの私たちは土を耕し文化を育む。そしてそこから生まれた果実を食してはまたも排泄する。排泄されたものは土と混ざり、肥沃な土地となる。そして食べては排泄して、それを繰り返しながら文化を営んできた人間も、最後には土に還る。土から生まれて土へと還っていくその狭間で、束の間の形を得ている仮初めの器として、私たちはある。

 仮初めだから儚い、のではない。仮初めだからこそ、私たちはもらったものを生かし、また与えることができるのだ。器から器へ、という授受が流れを生む。先祖から受け継いできたものをこの器へと承け、それを育ててはまた次の世代へと送っていく。そのための器が私たちだ。

 そして、言葉もまたそのようにして未来に送られていくはずだ。はなから私だけの言葉なんてものは存在しない。私が発するどんな言葉も、誰かから教わったものだし、その誰かもまた、別の誰かから言葉を教わってきたはずである。すべてが借り物なのだ。だからそれを幾度も咀嚼し、嚥下し、消化しては、成形し、排出する。そのようにして私たちは表現する。次代に向けて耕し、文化を醸成するのだ。

「またうんこあった!」

 今度甥が見つけたのは誰のうんこ、誰の表現物だろうか。

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葦田不見
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