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ひらいめぐみ『転職ばっかりうまくなる』を読んで──坂口安吾とともに

転職は堕落である。われわれは堕落せねばならない。その意味はのちにわかるだろう。

文学フリマ京都で、百万年書房さんのブースを訪れた。スタッフの方と会話になって、会社員をしながら文筆活動をしています、そして、今転職を考えています、と言ったときに、ならおすすめですと言われたのが『転職ばっかりうまくなる』である。気になっていた本だ。著者のひらいめぐみさんもブースに座っていらっしゃって、サインまでもらえた。

この本は、著者のひらいめぐみさんが、倉庫バイト、コンビニバイト、営業職、Webマーケター、書店スタッフ、広報などの職を経験し、ライター・作家(フリーランス)になるまでの経緯を記したエッセイである。文体は平易でとても読みやすい文章でありながらも、ひらいめぐみさんというひとの人柄やそのときそのときの考えがよく伝わってくる。転職しようとしているわたしにとってはなおのこと、あちらこちらにふと立ち止まって考えさせるようなポイントがあったので、線を引き引き、ページの端を折り折り、読み進めた。転職活動をしているひとは当然のこと、今の仕事に違和感を覚えているひとや、生き方に悩みを抱えているひとには特におすすめする。このnoteでは、坂口安吾の手を借りながら、この本の感想エッセイを書こうと思う(約5,000字)。


華々しい転職市場

終身雇用制度が崩れつつあり、転職市場が拡がっているとはいうが、それでも、転職回数の多い人は採用されづらいという話がある。転職市場が拡がっていることは、転職が歓迎されていることを意味しない。流動性は高まっていくが、結局のところ「キャリア」という一貫性を求められることに変わりはない。だから、流離譚の主人公たるわたしたちは当て所もなく彷徨うことになる。結局、資本主義においてはあるものが右から左に、左から右に移動することで産まれる価値が重要なのであって、いったい、その移動、交換の速度が速くなって得をしているのは誰だろうか。この高速を自由とはき違えてはならない。わたしたちは、一社で勤め上げるという幻想は壊したかもしれないが、一貫性の「呪い」は解けてはいない。いやむしろ、転職がもてはやされてひとがあちこち移動すればするほど、そこに一貫性が要請されるという意味ではこの呪いは強化されている。そしてこの本もまた、過去を「物語っている」という意味において、一貫性への傾向のうちにあることは否定できない。だがこれは、単なる成長物語ではない。むしろ、得ては失って、失っては得てを繰り返していく彷徨の物語だ。だからこそこの本は面白い。

人生を成長物語のように捉えるのは教養小説ビルドゥングスロマンの系譜であって、近代以降の産物だ。だが、それ以前にあったはずの物語の断片のようなもの、継ぎ合わされることのない詩的なもの、わたしたちを突き放すようなアモラルなもの、人生はそんな類のものだったはずだ。そこからしかわたしたちの「人生」は始まらない。そしてそのような断片性、詩情やアモラルさとの出会いをこの「物語」には感じるのである。

人生は線ではない

鷲田清一と山極寿一の対談で、人生を一枚絵のように譬える箇所がある。年を重ねるにつれて、過去の遠近感はなくなっていき、それが絵として広がるという話。わたしにはこれがしっくりくる。人生に目的を掲げてしまうと、どうしてもそこへと収斂していくような線のイメージ、物語のイメージが起動してしまうが、そうではなく、絵として捉える。タブローは平面ではない。顔料や絵具には厚みがあり、それが丘をなしている。シェアメイトのIくんとの会話で、人生に目標は抱かず、テーマを持っておきたいということを話した。絵ならばテーマというものが活きてくる。あちらにあんなものを、こちらにはこんなものを配置する。そう、themeとは、「置かれたもの」という語源を持つ。画面全体にいろんなものが散りばめられて、それが全体としてテーマとなる。なら、あんな絵やこんな絵が描けそうな気がしてこないだろうか。

李禹煥の「コレスポンダンス」や「対話」といった作品を想起する。わたしたちが鑑賞するのは、絵の具が塗られた部分(だけ)ではなくて、むしろその間だ。間に広がる空間こそがわたしたちの人生である。

間にこそ煌めくもの

さて、わたしもまた転職を考えている。もうすぐ今の会社で約3年勤めたことになる。3年で3割離職するという話があるが、その3年を、この会社で勤める目標としていた。同期も先日退職した。ひらいめぐみさんの『転職ばっかりうまくなる』は、たしかに転職を考えている身にはぴったりの本だった。基本的にこの本での記述は、点的であると思う。それぞれの職場での経験が独立して語られている。そして、その点と点との「間」にこそ、ひらいめぐみさんの生きた跡を読むことができる。転職するタイミングこそがいわばこの本における「クライマックス」であり、そこに煌めきがある。たとえば二社目を辞めるときの次のような記述。

入社して二か月ほど経ったある日、営業先からオフィスへ戻ると、大きな窓ガラスに、目を見張るような美しい夕焼けが広がっていた。ブラインド越しでもわかるくらい、それはぞっとするほど美しかった。目線を外からオフィスの中へと移すと、誰もその光景には気にも留めていない様子で、みなデスクトップの画面を見つめている。こんなにたくさん人がいるのに、誰ひとり。オフィスの入口にひとり立ったまま、「会社、やめたいな」とちいさく、くっきりと、静かな感情が湧き起こる。「やめたい」と思うような瞬間は、これまで何度もあったはずだ。でも、ムロさんに怒鳴られても、Tちゃんに裏切られても「やめたい」とは思わなかった。こんなにきれいな夕焼けを誰も見ていない、誰とも共有できない会社で働き続けることが、わたしにとって、なによりも耐えられないことだった。ここに馴染めたら、きっといつかわたしも窓から見える景色に、心が動かなくなってしまう。なりたくない大人になるために、就職したわけではなかった。

ひらいめぐみ『転職ばっかりうまくなる』p.84

美しいシーンだ。何かを辞めるとき、あえかな快楽を感じる。それは、必ずしも桎梏から解き放たれたからという理由だけではなく、自分がゼロであるということを感じることができるからだ。そして、おのれのゼロさを感じ取ることができる辞め方をしたものだけが、真に「外」の風に吹かれることができるのだろう。つまり、ふりだしに戻る、ということ。「詩」を書くということである。もう一節引用しよう。

キャリアが積み上がらなくても、収入が減っても、辞めたくなったら辞める。これが転職においてのわたしの譲れないポイントである。

 そうやって転職をしていると、どうなるか。ふりだしに戻る、ということが起こる。お金がないとつらいな、と思って就職したはずなのに、なぜかまたアルバイトで働きながら、ぎりぎりの生活を送るようになっていた。

同書p.115

辞めたくなったら辞める。そこを譲らないでいると、ふりだしに戻る。彷徨しているうちに、同じところに還ってきてしまう。そしてこの「ふりだし」に、わたしは坂口安吾のいうところの「ふるさと」を見出す。ひらいめぐみさんは何度も「ふるさと」に帰っては、そこから出発しようとしたのではないか。

「ふるさと」

坂口安吾の「ふるさと」

坂口安吾の「ふるさと」とはどんなものだったか。少し引用しよう。

 叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生れてくるのだ、と僕は思っている。
 (中略)
僕は文学万能だ。なぜなら、文学というものは、叱る母がなく、怒る女房がいなくとも、帰ってくると叱られる。そういうところから出発しているからである。だから、文学を信用することが出来なくなったら、人間を信用することが出来ない、という考えでもある。

坂口安吾「日本文化私観」

 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる──私は、そうも思います。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

坂口安吾「文学のふるさと」

文学のふるさとは、救いがないということ、その救いがないということが救いであるということにある。そして、そこに帰るたびに叱られるものだ。だから、どれほど孤独であっても、人間は自由ではない。だが、この「ふるさと」にずっと居続けるわけにはいかない。たしかにこの「ふるさと」はわたしたちのゆりかごではあるから、そこへ立ち返ることは必要であるが、大人であるところのわたしたちの仕事はふるさとへ帰ることではない。「ふるさと」への回帰は、「堕落」と読み替えてもよい。わたしたちは「堕落」せねばならないが、堕ちきることができるほどわたしたちは強くはない。「ふるさと」を発って、大人は大人の道を往かねばならない。「限度の発見」(「不良少年とキリスト」)をせねばならない。子供の遊びを辞めて、限度を発見するために大人は戦うものだ。

ひらいめぐみの「ふるさと」

だから、ひらいめぐみと坂口安吾を併せて読めばこういうことになる。わたしたちは一社で勤めあげるほど強くはない。かといって、どこにも所属しないで「ふるさと」に居続ける=堕落し続けることができるほども強くはない。あるいは、一社で勤めあげることが可能だったとしても、それもまた「ふるさと」を忘れることになる。だからわたしたちは転職=堕落をしては、「ふるさと」を見出し、そして再び「限度を発見」すべく別の職を見出さなければならない。それが大人の戦いである。

最後に

「転職をする」ということは、言わば「これまでの肩書きを捨てる」行為だ。倉庫のバイトから大手企業の正社員に転職をしたとき、倉庫が並ぶ川沿いのまちで、昼休みは川に行き、帰りはアイスを食べながらぶらぶら歩いていた日常が、ある日を境にオフィスカジュアルの服にパンプスで高層ビルに囲まれたオフィス街を駆け抜ける生活に一変した。自分で選んだことだ。自分で望んだことだ。でも、どちらも同じ自分だったはずが、背負わされる肩書きが変わっただけで、自分自身まで別人になってしまったようだった。ひょっとすると、いくつもの肩書きを捨てることで、自分がなにをしても自分であることを、たしかめたかったのかもしれない。

ひらいめぐみ『転職ばっかりうまくなる』p.206

ひらいめぐみさんは転職を重ねることで、「自分がなにをしても自分であることを、たしかめ」ようとした。それは、「文学のふるさと」に帰って自身の孤独と向き合うことである。最終章でひらいめぐみさんは「ライター・作家(フリーランス)」という生活に辿り着く。引用のほとんどないこの本で、唯一引用される文章がある。吉本ばななさんの『おとなになるってどんなこと?』である(このタイトルの偶然よ!)。

ではなにをするために人は生まれてきたかというと、私は、それぞれが自分を極めることだと思っています。人がその人を極めると、なぜか必ず他の人の役に立つようになっています。そんなふうに人間というものはできているんだと思います。

吉本ばなな『おとなになるってどんなこと?』

こうしてひらいめぐみさんは「大人」の道を見つけた。「正しく堕ちる道を堕ちきる」ことができたのだろう。彼女は自分自身を「救った」のである。

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