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【イムジン河】アルバム”ハレンチ”解剖【ザ・フォーク・クルセイダーズ】

2.イムジン河
 イムジン河をはさんで南と北に分かれている朝鮮の悲劇をあつかった歌。そのきれいなメロディー故に内容のほうが軽視されがちだが、よく聞いてみると恋人同志又は親子が南と北に分けられているのです。原語の意味は一番の歌詞とほぼ同じである。

”ハレンチ”ライナーノーツ抜粋

第一次ザ・フォーク・クルセイダーズが残した唯一のアルバム。
ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ(以下、ハレンチ)。

ザ・フォーク・クルセ(イ)ダーズはフォーク・ソングというジャンルの中でも、”カレッジ・フォーク”と言われるカテゴリに属されます。

「民謡をもう一度若者の手に」というアメリカ中心の――フォーク・リバイバルという運動がありました。
日本でもこの理念は、若者=大学生に広がります。
大学生の間で流行ったから「カレッジ・フォーク」というわけです。
「カレッジ・フォーク」という言葉は、日本特有の名称なんですね。

さて、第一次フォークルは「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトのグループでした。
その集大成となるアルバム”ハレンチ”に収録されている12曲のうち、帰って来たヨッパライを除く11曲が、国内外の民謡や流行歌です。

このアルバムは様々な顔を持つフォーク・ソングというジャンルを識るのに優れた題材です。
フォーク・ソングは民謡だという解釈もありますが、それは暴論です。
ですがもちろん、民謡としての顔も、フォーク・ソングは持っているのです。

ここではアルバムに収められた曲を1曲1曲解体し、フォーク・ソングへの理解をさらに深めて行こうと思います。

今回は言わずと知れたハレンチの二曲目、『イムジン河』について語りましょう。


ライナーノーツで見る『イムジン河』

イムジン河をはさんで南と北に分かれている朝鮮の悲劇をあつかった歌

”ハレンチ”ライナーノーツ抜粋

ここから6曲目まで、ライナーノーツは真面目な楽曲紹介になっています。
書いている人が違うんですかね。

イムジン河も、ソーラン節のおちゃらけとは打って変わり、ひどく真面目に解説されています。
かれらが大事に歌っていた曲の一つでもありますから、思い入れも強いでしょう。

さて、もはや赤子でも知っているんじゃないかという伝説を持つ『イムジン河』ですが、そもそもイムジン河っつーのはどこなんじゃいということで、Wikipediaから画像をお借りすることにしましょう。

Wikipediaより

イムジン河-臨津江のWikiよりも、38度線のWikiのほうがわかりやすい画像でした。
黄色いラインでおおざっぱに印をしたのがイムジン河です。
確かにこうしてみると、イムジン河を起点として、北朝鮮に深く切り込んでいく形で国境沿いを流れる川であることがわかります。
逆を言えば南朝鮮-韓国には掠るように通っているだけです。
そのためこの歌が北朝鮮で作られたというのも納得です。

そのきれいなメロディー故に内容のほうが軽視されがちだが、よく聞いてみると恋人同志又は親子が南と北に分けられているのです。原語の意味は一番とほぼ同じである。

”ハレンチ”ライナーノーツ抜粋
ハングル打ち込み頑張ったよ

恋人・親子が別たれていることはどうでしょう。
歌詞から読み取れるでしょうか。
たしかに、国境を隔てた土地へ思いは、土地で生きる人への思いと捉えることもできます。

ちなみに、第一次フォークルのイムジン河はハングルで歌唱している部分があります。
ここは原詩だと書いてある本がありましたので鵜呑みにしていたのですが、どうにも発音が違うことに気付きました。
慣れないハングルだから、ではありません。
明らかに音が違います。

なので、ツイキャスにてライブしていた韓国の方に突撃しました。
深夜2時のことです。
そして違和感のある部分のハングルを書き起こしてもらうというクッソ迷惑なお願いをしましたところ、快く受けていただきました。

結果からすれば、
原詩ではありませんでした。

歌詞の画像の赤色の部分が原詩です。
原詩の参考として、在日韓国青年同盟というサイトに掲載されていた楽譜、
「『イムジン河』物語 ”封印された歌”の真実」に掲載されていた楽譜、
楽譜に掲載されていた両者の歌詞を比較しましたところ、相違が認められませんでしたので、結論とさせていただきます。

突撃した優しき韓国人の方は、
「三行目の主語が変だ。わたしには意味がよくわからない。発音も違っていたり、古めかしかったりするね」
とおっしゃっていました(要約)。
彼は若い方で、この曲を知らないとも言っていました。
なので、北朝鮮を発祥とするこの詩の発音は、耳慣れないものだったかもしれません。
もちろん、フォークルの発音がアカンかったということもあるようですが(有名な話だそうです)。

わたしは韓国語を全く喋れないし、書けないし、聞き取れません。
学のあるお方でしたら、こんなことはすぐにわかるのでしょうが、わたしにしてみれば一つの発見です。

ライナーノーツこう締められています。

原語の意味は一番の歌詞とほぼ同じである。

ライナーノーツより

『ソーラン節』の解説で、民謡はメロディという箱に歌詞が入っているようなものだと書きました。
箱の中の歌詞という内容物は出し入れが自由だと。
現代の曲は、権利という箱に入っていてメロディと歌詞は混然一体のものだとも書きましたね。

イムジン河は権利という箱に入れられた(1968年当時は)新しい楽曲でした。
なので歌詞を出し入れすることはできません。
ですが、第一次フォークルはこれを民謡として扱い、歌詞を出し入れしました。

この行為がイムジン河に与えた影響はなにか。

それでは第一次フォークルの歌詞を詳しく見ていくとともに、原詩や、悲劇の末に生まれた詩もまとめて見ていくとしましょう。


詩で見る『イムジン河』

イムジン河(日本)、イムジンガン(韓国)、リムジンガン(北朝鮮)、Imjin River(英語圏)……。
北朝鮮の楽曲として1番広く認知されている曲です、と言いたいところですが、
最近はネットミームになった「コンギョ」にその座を明け渡したようですね。
コンギョコンギョー。

さて、イムジン河にはたくさんの歌詞があります。
原曲は2番までしかないというのにです。

まずは当たり前ですが、原詩。
それからフォークル・松山猛の作詞。
李錦玉の訳詞。
吉岡治の訳詞(キム・ヨンジャ歌唱)。
歌詞ではありませんが、翻訳家(……だと思います)である世良砂湖による翻訳詞。

フォークルに至りましては、2002年に独自の3番。
2011年に4番を新たに「作詞」しています。

原詩はプロバガンダ色の強い歌詞だった、と別記事でわたしは書きました。
ではその原詩とはどんなものだったのでしょう。
原詩をgoogle翻訳にぶっこんだものが世良さんの翻訳にとても近しかったので、以下に掲載します。

在日韓国青年同盟HPからDLできる楽譜から引用

是非、松山さん作詞のイムジン河と見比べてみてください。
1番は「ほぼ」原詩に近いというライナーノーツの説明も納得です。
原詩を踏襲しつつ、いかにこの政治臭を上手に消したかがわかります。

イムジンガンの流れよ 恨み載せて 流れるのか

原詩では朝鮮民族の持つ「ハン」の文化が強く出ています。
南に行きたくとも行けず、恨みがましく北から南を見つめている。
イムジン河よ、この恨みを向こうにも届けてくれ。

特筆すべきは2番です。
「あっちはダメでこっちは良い」と、徹底したプロバガンダ(政治的宣伝)を著していますね。
あっちでは作物も取れない。こっちの(国営)農場では稲穂がたわわに実って風にそよいでいるというのに。
だから「イムジン河の流れを 引き裂こうとしても 引き裂けないだろう」。

ここはちょっと言葉に段差があるような気もします。
ですが、こっちの方が優れているのだから、いずれ向こう(南)は根を上げていずれ統一されるだろう、といったようなニュアンスを感じることができますね。

恨みと優越のイムジン河。
メロディも「ほぼ」同じながら、フォークルで編曲されたものより、一層哀愁を漂わせます。

そしてこの原詩をもとに、他国の人間にも引き裂かれた国の民が持つ望郷の思いをわかりやすく「翻訳」したのが、松山さんによる松山詩です。

ハングル打ち込み頑張ったってば

イムジンガンの流れよ 恨み載せて 流れるのか

イムジン河水清く とうとうと流る 

詩の改変ということでもろ手をあげて、とするわけにもいきませんが、
言わせてくださいね。
この改変は天才と言ってもいいでしょう。

さらに「我が祖国南の地」と一見われわれ日本人に馴染のない景色が見えたかと思えば、思いははるか
この改変によって、純粋な望郷の歌に変わっています。
そして1行目の詩を4行目に繰り返すことによって、美しい風景を強く印象つかせる。
さらに、1番を最後に繰り返し歌うことで、望郷の思いをさらに強く印象つかせる。

余談となりますが、同じ言葉を繰り返す重要性は、アドルフ・ヒトラー「我が闘争」においても書かれていましたね。

こうなれば、国同士の問題のほかに、自己を投影することが容易になります。
映画パッチギ! が良い例でした。

差別・区別。
その両者の間を流れる河に、イムジン河は成ったのです。
プロバガンダ・ソングから望郷の民謡に変換されたことで、多くの人にそれぞれの思いを抱かせることができるようになったと言えます。

ちょっと前にも書きましたが、赤字が原詩で、黒字が第一次フォークルの歌唱をヒアリングしたものをハングルに書き起こしたものです。
「第一次フォークルのイムジン河は原詩を歌っている」という記述をあちこちで見かけますが、原詩ではないことがわかります。
これ、2行目から直訳すると意味が通りません。

水鳥たちは自由に飛び交うが、
水鳥たちは南へ行きたくても行けない

みたいな訳になります。
第一次時代はずっとこの発音で歌っていますから、もしかしたら意味があったり、別の言葉なのかもしれませんが……。

そしてプロとなったフォークルは、このハングル歌唱をやめ、松山さんが新しく作詞した3番を取り入れたものでした。

第二次フォークル・イムジン河

1番、2番はそのままに、結論としての3番。
祖国を別たれ、あちらに帰ることはできないが、ふるさとをいつまでも忘れはしない

結論としての詩。
これがいかに重要か。
帰ることができない、という悲しみだけの詩に、希望が生まれました。
いつか、願わくば虹よかかっておくれ。
向こうに渡れるように。
それまでわたしは、ふるさとを忘れないでいよう。

ここだけ見てしまえば、上京した若者が故郷を思うときにも、この歌は入り込んで来れるでしょう。
国同士の問題がわたしたちの近くに寄り添ってくれる歌に変わった、そんな気もしてきます。
プロバガンダ・ソングから望郷の民謡へ。
松山詩のイムジン河は多種多彩な人の心に寄り添う道具としての歌となったのです。
これは、原詩のイムジン河とは別の、松山さんが作ったイムジン河という民謡=フォーク・ソングなのです。

しかしイムジン河は民謡ではありません。
権利と言う箱に入った、新しい歌です。
この松山詩が販売中止になった数か月後、プロバガンダ色をそのまま残したイムジン河が発売されました。
原詩・元のメロディに忠実、というやつですね。
李錦玉という作家さんが直々に翻訳したもので、フォーシュリークという、のちのポップス・フォーク・グループ「南こうせつとかぐや姫」に参加する方をリーダーとするグループが、これを歌っています。

正式な曲名は「リムジン江」

編曲の西岡たかしさんは、五つの赤い風船というグループのリーダーでして、これも伝説的フォーク・グループの一つに数えられます。
それは置いておいて。

原詩に忠実、とは言え、「」の字が使われていません。
ただ、祈るように問いかけています。
なぜ向こうに帰れないのか、リムジン(イムジンの北朝鮮発音)よ答えておくれ。

そして2番は、原詩に近いです。
向こうはだめでこっちは良いぞ。
こうしてみると、やはり4行目の詩が浮いているのがわかりやすいですね。
どこにも引っかかっていないように見えます。
1番の詩を持ってくるという、ある意味「四行連詩」を踏襲するような形として見るのがいいのかもしれません。

このように、イムジン河という曲は朝鮮総連の抗議から、さまざまな詩に分裂しました。
土地が変われば詩もメロディも変わる。
偶然ではありますが、この曲が権利というパッケージに入れられたものだったけれど、強引な手法で、民謡としての特徴を手に入れることになりました。

以上が、簡潔ではありますが、イムジン河がたどった、おおまかな旅路です。


まとめ――土地によって変わる歌

加藤和彦が亡くなってからも、ザ・フォーク・クルセダーズは再結成・解散コンサートと称して、一夜限りの復活を何度も行ってきました。

オリジナルメンバーであるきたやまおさむ・平沼義男・井村幹夫・芦田雅喜をはじめ、メインメンバーに坂崎幸之助が加入し、たくさんのアーティストの協力を持って、フォークルは生まれ変わり続けています。
その中でイムジン河は、1965年に結成され、1966年に初めて舞台で歌ってから、連綿と歌い続けられてきた、フォークルにとっては”定番”です。

2011年のコンサートで歌われたイムジン河は、以下の詩で歌われました。

×再開も 〇再会も
画像データ消しちゃって修正あきらめた、ゴメン

発売中止になったイムジン河の3番が新しい詩に変わり、さらに4番が付け足されています。
より直接的に、北と南の統一――いえ、両方を別国として、両国がつながるように。

3番は、2002年に、きたやまおさむ・加藤和彦・松山猛が新たに作った”イムジン河―春”として、歌われたものです。
半世紀もの時間の流れから春になり、冷たく凍った山からの雪解け水は、イムジン河となり、やがて海へと還る。
国境線となるような川も、いずれは大海に流れ込み、様々な水と交じり合うのだから、いずれは……。

この詩は、”ふるさとを忘れはしない”という松山詩の3番代わりになる、新たな結論です。
緊張状態から時は進み春が来たという、平和な言葉選びが感じられます。

そして、4番。
この詩は、松山詩3番と、”春”の結論を包括した、より具体的な祈りが歌われます。

もう一度会いたくて あなたに会いたくて

あなたとは、南にいる家族のことでしょうか。
北にいる恋人のことでしょうか。
それとも、亡くなった加藤和彦でしょうか。

北と南結ぶ、という、北と南とはなんなのでしょうか。

イムジン河はこの1曲だけで、書籍が数冊出ており、映画にもなり、海外アーティストやプロデューサーをはじめ、さまざまな人が並々ならぬ思いを持って真摯に向き合われてきた歌です。
そのきっかけはやはり、ザ・フォーク・クルセダーズがこの曲を歌い、世に広めたから。

朝鮮の問題について、わたしたちは外様です。
それでもなお、なぜイムジン河はこれほどまでに日本人の心に沁みるのか。
時代が変わって、土地が変わって、なぜ今でも通用するのか。

民謡ではない歌が民謡になる。
そんな偉業を、かつて大学生だったザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと、松山猛は、半世紀もの時間をかけて成し遂げたのです。

世界には偉大な歌手がたくさんいます。
しかし、民謡=道具たり得る歌を作り出すというのは、アーティスト精神とはまた別の分野であるように思うのです。

土地が変われば歌詞も変わる。
けれど、やはり道具の使い方は変わらないのです。
もともと1つだったものが別たれてしまったのならば、取り除きたい。
祈りは歌になり、歌は世代を超えて歌い継がれます。
いつか歌のように世界が変わればいい。
それまでは夢を啜って生きていこう。旗印にして耐え抜こう。
歌とはそういう、杖のような道具でもあるのです。

杖を使って畑は耕しません。
杖を使ってインターネットに接続できません。
世界のどこに行ったって、杖は杖であるのです。

さてフォークルが歌うのは、イムジン河やソーラン節と言ったアジアの民謡ばかりではありません。

次回は、同アルバム3曲目。
アメリカの黒人霊歌、”ドリンキン・グァード”についてお話します。


長々とした記事を読んでくれてありがとう。
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では、また次の記事で。



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