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書いていれば救われると知ったのは10歳の夏だった

週に何本かnoteを書くようになってから、友人にリアクションをもらうことが増えた。エモかったとかくだらなかった(褒め言葉のはずだ)とか表現はさまざまだけど、読んでもらえるのは嬉しいことだ。

ある日LINEグループでnoteについて話していると、友人のひとりが「僕には文才がないからうらやましいよ」と送ってきた。文才とは…

文章を巧みに書く才能。文学的才能。もんざい。
「文才に恵まれる」
ーデジタル大辞典

才能ということは、生まれもった特別な能力のことだろう。はたして僕は大いなる”チカラ”でも継承していたのだろうか? 勇者の系譜…血の記憶…ギガクラッシュ…

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ドラクエはさておき、僕に文才はあるかと聞かれても正直分からない。その代り、周りに冷たいことを言われても文章を書くことを止めなかった自負はある。今日は僕と「書くこと」のこれまでについて、「書く意味」をはじめて見つけたエピソードを紹介したい。

覚えていますか 「白いぼうし」

小学4年生のとき国語の授業で、あまんきみこ作「白いぼうし」という物語について勉強した。タクシー運転手の松井さんが、夏みかんをめぐって「しんし」とやり取りをしたり、チョウを逃したあとに車に乗り込んできた少女が急に消えてしまったりする話だ。覚えてる人もいるのでは?

クローバーが青あおとひろがり、わた毛ときいろの花のまざったタンポポが、てんてんのもようになってさいています。
その上を、おどるようにとんでいるチョウをぼんやり見ているうち、松井さんには、こんな声がきこえてきました。
「よかったね。」
 「よかったよ。」
「よかったね。」
 「よかったよ。」
それは、シャボン玉のはじけるような、小さな小さな声でした。
車のなかには、まだかすかに、夏みかんのにおいがのこっています。

「白いぼうし」は基本的に登場人物の会話と、松井さんの目の前で起こったできごとや状況の描写だけで物語が進んでいく。心境をわざわざ説明する文章がなく、淡々と、しかしカラフルなこの作品は当時10歳の僕に刺さるなにかがあった。

夏休みを前に学習の集大成として、「運転手の松井さんが登場するオリジナルのお話を書いてみよう」という課題が4年生の全クラスに出された。先生が黒板をつかって書き方の説明をはじめると、頭の中でスイッチが入る音が聞こえた気がした。

周囲との温度差

それからの日々、家に帰ってからも野球のバットやゲームボーイを手にすることなく原稿用紙に夢中になった。学校からもらった用紙が足りなくなったときは、閉店直前の文房具屋を訪ねて少ないお小遣いで買い足した。我が家には22時までに寝るきまりがあったが、まじめに勉強していると見た両親は僕が書くことを止めなかった。

しかし一般的な10歳の男子というと、そろそろ「一生懸命なことがダサい」とか「作文とか発表は手を抜こう」とか言い始める年頃だろう。現に周りの男子グループから「必死に何やってんだよ」とからかわれた記憶がある。ナイーブだった僕はきっとたっぷり傷ついたんだろうけど、それでも書くことを止めなかった。

課題が発表されてから提出するまでのあいだ、どれだけの期日があったかは忘れてしまった。だけど一人で原稿用紙と向き合った日々を通じて「書くって大変だし周りになにか言われるかもしれないけど、どうしても必要なおこないなんだ」と僕は身をもって学ぶことになる。

書いていれば悪ガキの親分だって味方になる

作品を先生に提出して家に帰宅した日の夜、僕は高熱を出して病院に運ばれた。「おたふく風邪」と診断され、学校の決まりで10日ほど強制欠席することになった。

書き上げた物語はクラスで順番に読み上げ、一番ステキだと思う作品をみんなで選ぶことになっていた。さらに夏休み前の学年集会でも一番に選ばれると、業者が製本してくれるご褒美までもらえるはずだったのだ。

僕はどうしても発表したかったし、みんながどんな感想をもつのか聞きたかったので悔しくてたまらなかった。しかし顔がパンパンに膨れて声も出ず、泣きながら家で「ズッコケ三人組」を何冊も読んで過ごした。見かねた母が最新作を買ってきてくれたのだが、タイトルが「緊急入院!ズッコケ病院大事件」だったのでまた泣いた。


話はここで終わらない。クラス発表が終わった日、同じ班のリーダーがプリント類を持ってくると「俺が代わりに読んだらクラスの代表に選ばれた!」と興奮気味に母に話していた。僕は風邪が移らないよう隔離されていたけど、部屋のドアに耳を当てながらガッツポーズをした覚えがある。

そして夏休み前日の学年集会の日、僕は朝から熱にうなされて一日中眠ってしまっていた。夕方ごろに起きて「誰か来た?」と母に尋ねると「あんたの作文が学年で一番に選ばれたらしいよ」と教えてくれた。まだ夢をみているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「また班長が読んでくれたの?」と問うと「○○君が立候補して読んでくれたんやって」と母は言った。○○君とは、クラスの悪ガキ軍団の親分だ。僕と同じ班にいた彼はたしかに怖かったし、作文を書く僕をからかうグループも決して逆らえなかった。授業においては、積極性ということばと距離を置くタイプだと思っていた。

悪ガキ親分が学年全員の前にたち、真剣に作文を読む光景をイメージしてみた。彼は意外とあがり症だから、声が上ずったりしたのかな。漢字が苦手だから、読めなくて笑われたんじゃないかな。想像しても全然似合ってなくて、僕は思わず笑ってから、ゆっくりと泣きはじめた。

「嫌なことを言われても、書いていればいつか、絶対に救われるんだ」

もう20年も前の話だけど、僕はこの出来事を生涯忘れないだろう。

たとえ ”さぶくても” 書く

中学をすぎて高校生になると、モバゲーやらmixiやらの更新にハマるのだが、日記だけを書きたいと無料ホームページ作成サービスの「@peps!」でブログを立ち上げた。学校生活で思ったことや社会の関心事とかについて寝る前に書き、翌朝に同級生や下級生からのコメントを読むのが日課だった。恋愛のことを書くときは、付き合った記念日とかをパスワードに設定して鍵付きの記事にした。

ときに「あいつまたマジメなこと書いてたぜ」とか陰口を言われることがあったけど、僕は誰かの誹謗中傷は絶対しなかったし、自分の言葉を否定されてたまるかと反抗してみせた。ブログ上で。

大学に入ってからはTwitterとかのSNSでニュースなどに関する意見を言ったり、フォロワーと議論をしたりした。あまりにうるさかったのか、大学の友だちが何人かリムーブしたことを後日知ることになる。でもそのぶん新しく僕の話を聞いてくれる人が増え始めたので気にしなかった。いや、ちょっと傷ついたし反省した。

社会人になってすぐ、Facebookで仕事に関する長文を投稿したことがある。将来の夢と現実のギャップなど思いの丈をつづった渾身の文章だったけど、知人から「長過ぎる」とか「さぶい」と茶化された覚えがある。腹も立ったしショックだったけど、それでも僕は書くことを止めなかった。書いていればいつか救われると、10歳の僕が言い聞かせてくれたから。

本当は小学4年生の話で終わるはずだったけど、12年分ぐらい延長してしまった。実はこの先にも僕と「書くこと」をめぐって一悶着あるが、長くなるからこれは前編として、後編もそのうち更新する。先に伝えておくと明るい話ではない。

しかし「書いていれば救われる」なんて、10歳のガキんちょが大それたことを言ったものだ。30歳を前にした今は書くことの意味なんて山ほどあると思うし、正直モテたいから書くときもある。でもそのエネルギーを現実の女人に直接ぶつけた方が効率的とか言うのはやめてください。10歳の僕よ、助けてくれ。

だけど僕はまた懲りずにノートに構成やアイデアを書きなぐっては、新しいnoteを書き始めるだろう。書き続けることが、いつか僕を救うから。


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